でも、と言いかけて、わたしは迷ったその言葉を一度飲んだ。
「なんですか? ……言って」
アンに気圧され、逃げるようにわたしは小綺麗な部屋を隅々見渡した。
「この部屋を使わず、社長さんの前で飲んでたなら、社長さんはお母さんのことを本当に受け入れてくれていたのかもしれないなって」
もしかすると社長さんは、否定せず、罵らず、アンのお母さんの変化を見てきた人なのかもしれない。依存症の治療入院にまでこぎつけた人だ。わたしは一筋の希望を見出していた。
一方で、それはアンの心の闇をさらに深めた。
アンはおもむろに歩き出し、冷蔵庫を開け、中にあった缶ジュースを掴んだ。
「どっちがいいですか」
「……りんご、いただきます」
わたしは戸惑いながらも、アンから缶ジュースを受け取った。
「これ、俺が来るときにいつもくれてたやつなんです。最近は玄関から中に入れたがらない日も増えて、これ立ったままイッキですよ。あほらし。そこまでしていらないっての」
缶を見つめ、握り直してばかりいた。彼の大きな手のひらにすっぽり収まるミニサイズの缶ジュースは、何ということもなくそこに佇む。
「俺、てっきり、また掃除が出来なくなってきたんだとばかり思っていました。昔から何度もあったんです。でも、またそのうちに
彼はプルタブを引いて缶ジュースを開けると、
「瀬野さん、帰りますよ」
アンは荷物をまとめ、玄関で靴を履き始めた。トントン、とスニーカーのつま先を床に打ち付ける。わたしもせかせかと靴を履く。
また駅の方向に歩き、タクシーを捕まえなければ。
そう思ったとき、タクシーの配車アプリがあることを思い出した。スマホを取り出し、久しく使っていないアイコンを探す。
「明日、朝からカフェ勤務でしょ。俺の家から行った方が行ってください。寝る時間なくなりますよ」
アンはわたしのスマホをのぞき込みながら、何でもないことのように言った。
「そう、だね」
ふわふわと、浮く言葉。ぎこちなく返してしまったことを後悔する。煮え切らない態度が出てしまっただろうか。
確信めいた思いを得ないまま、彼に付いていっていいのか。そう考えるのは
夜明けが近づき、窓の向こう側はいっそう暗くなっていた。
「何もしないですよ。病み上がりの人に」
さあ、ほら、と彼は早く家から出るよう急かした。気恥ずかしさに安堵が混じる。一歩出た外は一際静かで、アンの鍵をかける音が異様に響いていた。
*
来た道を戻り、先ほど曲がらなかった道へ入って行く。マンションやアパートが軒を連ねる閑静な住宅街で、先ほどよりは少し綺麗な家々が目に入る。
「お店からだとかなり近いね。うらやましい」
わたしはいつも電車だから、と言いかけると、アンは小さく「母がいるので」と言った。母思いの子に巻き付く太い縄がまたちらつく。
あるマンションの前に着くと、アンは軽く指を差した。そして何も言わずに入って行く。オートロックのエントランスを抜けてエレベータ―に乗り、夜中でも煌々と電気が付く共用の廊下を抜けると、「1001」と書かれた小ぶりの表札の前で止まった。鍵を再びポケットから探し出し、鍵穴の走行に沿わせるように入れていく。そうして開いたドアの向こうからは、彼の匂いがした。
「おじゃま、します」
何だか取り返しがつかないことをしている気持ちになりながら、そうっと玄関で靴を脱ぐ。わたしが内側からドアの鍵を締めるころには、既にアンは部屋の奥へ行ってしまっていた。
廊下を抜けると、広めの1Rになっていた。入ってすぐに壁付けのシステムキッチン、そして部屋の角にデスクがあり、反対側の壁沿い奥には、ベッドが置かれている。かけ布団に入るしわが生活感を醸す。部屋の中央あたりにはラグが敷かれ、ダークグレーのソファーと大きめのガラステーブルがあった。
「わあ」
ガラステーブルの上に無造作に置かれた雑誌は、東京のバーや飲食店を特集している有名誌。20代男性の、いかにもな部屋だった。
「わあ、って」
わたしの間抜けな声を早速真似して、彼は笑う。
「気にせずくつろいでください。俺はソファーで寝るので、ベッドは使ってください。充電はあたまのところで」
そう言って、アンはクローゼットを開け、衣装ケースに入っていたタオルとジャージを手にした。
「これ、どうぞ。お風呂とトイレはさっき通ってきたところですので、テキトーに」
「ありがとう」
渡されたジャージは、もちろんアンのものだ。オリーブグリーンのトレーナーは、袖を通す前からわたしには大きすぎることが見て取れる。
テーブルの置き時計は4時を回った。わたしは先にシャワーを借りることにして、必要なものだけを持ってそそくさとアンの部屋を出た。