「アン」
わたしは、彼に周辺の音を聴かせた。車もろくに通らない道は静寂に包まれる。深夜3時に向かう時計の針と、近づいた二つの心音しか動いていない。星影さやかな、ふたりしかいない世界で、彼の平穏を取り戻すのはわたしの役目だ。
「訳分かんないことばかり。なんで、って聞くのも面倒になるね」
アンは「そうですね」とだけ言った。手を握られるまま、身体を抱き寄せられるまま、それらをすべて受け入れながらも、反応を示すことはなかった。これまで面倒をみていた彼を思うと、自然と虚しさが込み上げる。
「捨てちゃえば」
「何言ってんですか」
「アン、前言ったよね。ふらーっとその辺で死んでくれないかな、って」
「言いましたけど」
一度言葉を選び始めると、人はどんどん冷静になってゆく。
「でも、できない、とも言いました」
再び動き出した彼は、そっとわたしの手を放し、一歩後ろへ身を離した。畳がしなる音がした。
「うん。でも、今は社長さんがいるじゃん」
「ええ」
「依存症になるまで一緒にいたんだから、長い付き合いなのかもよ」
それは一朝一夕になるものではない。向こうの家で飲む間柄、こちらのアパートにお酒を置かなくてもいいほど過ごしているであろう状況に説明はいらなかった。
彼の頬が硬くなっていくのがわかる。畳の方に落とした視線は冷たい。納得のいかない顔つきは、理解を示しているようにも見えた。
「それに、『お母さんは病院嫌いだ』って前言ってたよね。その状態の人に入院の同意をとるって、よっぽどだよ」
いよいよ彼は黙ったまま、唇もまったく動かなくなった。悲しく瞼を落としたかと思えば、伏し目がちにこちらを見た。
「俺はどうなるんですか」
突然声を荒げ、わたしの両肩を掴んだ。指の力は強く、痛みを覚える。そんな中でも、高い身長で覆いかぶさるようにわたしを見下ろしている。
「……これ、何ですか?」
「え?」
「あれですか、お得意の。精神科の技法かなんかですか? そういうのやめてください。汚い」
今度は苛立ちをわたしの方に向けた。アンは繊細だった。何にでも気を立て、今にも向かってくるところだ。
わたしは、バーカウンターに立つ普段の彼を思った。物腰柔らかで、揉めごとには一切乗らない。あえて感情を表に出してはしゃぐ香月さんの横で、あえて感情をひた隠しにして微笑む。そんな彼が、今こうして目の前で乱れている。
「違うよ」
「じゃあなんですか? 何を吐かせようって魂胆ですか」
「別にそんなこと」
「俺の心のうちでも見えましたか」
まくし立てるように話す彼は、次第に動作が大きくなる。疑心暗鬼になっていた。垂れる前髪を雑にかき揚げ、そのまま頭を抱える。大きなため息をひとつ落とした。
わたしは自分を明らかにした。――自己開示。自分の
「……わたしはこうして捨てたってだけ」
「何を」
「親」
一瞬、誰も呼吸をしていない時間が流れた。アンがバツの悪い顔をして、こちらを見ている。
「もっともらしい理由を並べて、納得してきたの。自分は悪くないって、これが最適解だって。そうして親と距離を置いて、今は連絡もほとんどとらない」
「アンは分からないよ。分かるはずない」
「いや別に、俺だって」
「この部屋じゃ、分からない。この部屋はアル中の人の部屋じゃないもの」
アンは要領を得ない顔でこちらを見る。わたしは彼に家の様子をひとつひとつ丁寧に伝えることにした。
乱れの少ない、常識的な部屋。地面にごみがなく、開いているふすまからは、お酒の缶や瓶がのぞくこともない。テーブルの上もべたつかず、さらりとしたほこりが薄く見える。部屋の端に目をやると、円柱の蓋がないごみ箱があった。お酒のつまみになりそうなものは入っていない。ティッシュに紛れて、子どもにあげるようなお菓子の空袋だけが無造作に捨てられている。
そして先ほど通ってきた玄関の脇には、家中のごみをまとめた30Lの袋がふたつ。燃えるゴミと、瓶・缶だ。透明な袋にまとめて置かれていた缶は、160㏄ほどしかない小さなくだものジュースやコーヒ―の缶だ。瓶は、調味料の空き瓶がひとつだけ。そしてすぐ近くのドアポケットには、チラシが秩序なく詰められていた。
「ほとんどもう、この家にいなかったんじゃないかな」
ほこりをかぶったテーブルに触れながら言った。わたしの手に付いたグレーの薄化粧に、アンが表情を歪ませる。
「習慣的に飲まないと、依存症の診断はつかないもの。さっきアンが言ったように、この家が入院前と同じ状況なら、それはできない」
それどころか、生活の跡が薄すぎる。
アンからお金をもらうときだけ、この部屋に来ていたんじゃないだろうか。
「そうですね。冷蔵庫の中も調味料とジュースくらいしか入ってなかったんで。『そのまま出てきた』という割には、綺麗すぎるくらいでした。昔は綺麗好きなんかじゃなかったのに」
自然と冷蔵庫がある場所へ視線が動く。今ならと、冷蔵庫の中を開けてみる。オレンジとりんごの小さい缶ジュースがまだ右奥で冷やされていた。アンの言う通り、お酒のつまみはおろか、食事になりそうなものも一切入っていない。
「でも分かんないですよね。俺が来る直前にごみを捨てちゃえば」
「そうだね。それでも、アンは何も悪くない。この部屋を見てお酒に気を付けようとは思わない」
もっといい言葉があるはずなのに。
ありきたりなセリフばかりが出てくる。安っぽい自分に嫌気がさした。
「でも俺は、よく見てきたはずなんです。お酒を飲む人たちを」
「……人に隠れてまで飲むから、
この何もない部屋が、アルコ―ルを隠した部屋なのか、別の場所をすでに生活の場としていたのかは定かでない。ただ、確実にアンの知らない事実があることを暗示していた。