目的のアパートに着くと、どの部屋の窓からも明かりは点いていなかった。アンはわたしの手を放し、持っていた鍵を再び取り出した。深夜の2時半は過ぎている。わたしたちがそうっと中に入ると、玄関には一足の靴も並んでいない。
「まだ何もしてないんです」
アンは玄関の電気をつけながら言った。そして靴を脱ぎ、一足目の靴として玄関に揃える。
「明日の日中、病院に行くんです。俺に入院がバレたと思ったら、母は開き直って『あれ持ってきて』『これ持ってきて』ってうるさくて」
わたしが靴を脱ぎ終えるのを待つ間、彼は徐々に今日の出来事をぽつぽつと話し始めた。アルコール依存症の診断で専門病院に入院となったこと、それを今日知ったこと。
「実際、入院したのは少し前なんですよ」
「なんで分かったの? お母さんが入院してること」
わたしは不思議に思い、すぐに聞き返した。
「今日、本当なら生活費を渡す日だったんです。10日に1度、手渡し。……いつからか、渡したら渡した分だけ使うようになって、最近はずっと、こんな感じ、で……」
わたしに伝える中で、アンは引っ掛かりを感じたようだった。
「……そのころから、酒に使ってたんでしょうね」
言葉が途切れそうになりながらも、懸命に続けようとする彼の姿は気の毒に思えた。わたしはなんと声をかけるべきか頭を悩ませた。唇はもうずっと力んだままだ。
「アンのお金管理がなかったら、状況はもっと悪かったと思うよ」
励ましの言葉を無意識に探す。しかし、そうかんたんには見つからない。
彼が金銭管理をしていなかったら、自由にできるだけお酒に費やしていた。必ずそうしてしまうのが、依存症だった。
「でも俺、気づかなかったんで」
長身の大きな体が小さく、そして透明になっていくようなか細い声が和室に響く。
「入院してることが分かったのも、今日いなかったからです。お金を渡す日に玄関から出てこないって、あの人じゃ考えられなかったから。それで、万が一の時用に渡されていた合鍵を使って、焦って玄関を開けて、それで、これ……」
アンは和室中央にあるローテーブルを指差した。その端の方には、小さなメモ書きがあった。
――来なくていいんだけど、ちょっと入院します。XX病院、XX先生。お金は置いといてー!
走り書きのような文字は、小さくなるとミミズが這ったように震えていた。
「それで病院に行ったら、個人情報だからって教えてもらえなくて。……家族なのに? 俺しかいないんですよ? あの人には」
行き場のない怒りが滲む。確かに病院は、家族であっても本人の同意なく所在を教えることはできない。家族情報欄に記載されなかったアンであれば、なおさらだろう。
「どうやって会えたの? お母さんと」
「病棟では通してもらえなかったんですけど、ちょうど庭を散歩しているあの人を見つけたんです。フェンスごしに声をかけたら、いつもと同じように俺の名前を呼ぶんですよ。手なんか振って」
ああ、とわたしはまた曖昧な相槌を打った。一方でアンは嘲笑しながら、狂ってるんです、とつぶやいた。
少し沈黙のあと、彼はお母さんのあとを付いて病室まで行った話をしてくれた。
「溜まっていたみたいに、病院から入院や治療の説明を受けました。たまたま主治医の都合もついたとかで、看護師からは『運がいい』と言われました。何がいいんだか」
不意に動いた視線の先を見ると、病院の名前が印字された角2封筒が無造作に置かれていた。中には書類が見える。
「母は、俺のことを言ってなかったんです。俺を見た看護師から『ご家族さんいらっしゃったなら、ちゃんと書いていただかないと』って注意されて、笑ってる。へらへら。そしてその看護師が俺に、『書いてくださいね』って強めに言うんです。こんなだるいことあります?」
バーで聞くような他愛もない笑い話をするように、アンは振る舞った。一方で、看護師の言動は容易に想像がつくのに、わたしは手放しに笑うことができないでいる。眉間にしわを寄せ、乾ききった下唇をほんの少しだけなめた。
「それで、渡された用紙の家族欄を見たら、知らない名前が先に書いてあるんですよ。50代半ばの社長さんらしいです。続柄はなんだったかな……えーっと……あ、そうそう、
話せば話すだけ、アンは荒れていった。表情もきつくなり、軽蔑するような目をしたかと思えば、時折また冷たく何かをばかにするように笑った。
「看護師の小言も体よく切り抜けて。ああ、ずっとこうやってきたんだったな、この人は、って思い出したんです。もともと狂ってるんですよ。アルコールのせいなんかじゃない。全部もともとで……」
わたしが入る余地もないほど、彼は口を走らせる。止まり方を知らないみたいだった。
わたしはアンの左手をとった。室内にいるのに、先ほどとは打って変わって指先はとても冷たくなっている。そして、そのまま彼の身体をゆっくりと引き寄せた。