皮膚が触れる。さらさらとしていた。アンの指先が滑るようにわたしの手を取ったことを、遅れて理解した。
「……どうしようかな」
ひとつしか変わらない年。一個下のアンに、余裕のあるふりをした。
ああ、小賢しい。こんなことが流れるようにできてしまう。大人になったと言えば聞こえがいいが、こんな時間稼ぎに何の意味があるだろう。
深夜の静寂に包まれた通りで右手に人の体温を感じ続けていると、ふと、この瞬間から逃げられないことを理解した。そうすると、否応なしに自分の「今」に照準が合う。上がり始めた夜中の湿度やアンのわざとらしく平坦な声は、深夜の暗がりが手伝って、強い引力を持ったようだった。強く、強く、引き込まれそうになる。そこをわたしは、数メートル先の地面を曖昧に見つめながらじっと立っていた。
久しぶりに、今この瞬間というものを噛みしめた気がした。
そうして炙り出された自分は、
朝食を準備している日の当たらないキッチンで、仕事で行った訪問先のお宅で、できなくなったことを何度も噛んでいた。咀嚼しているふりをして、まったく気持ちの整理もできないまま時間だけが過ぎる。看護師として使い物にならない事実がいまだに喉元にある。現実と向き合うふりだけが、徐々に上手くなった。
いつまでも過去にできない。それはずっと、「今」を蔑ろにしていた。
「少しは悩んでくれるんですか」
半歩前にいるアンが、冷ややかに笑った。彼はわたしの心がどこかへ行っていたことに気づいていたが、右手はまだ握られたままだった。
「アンって、意外と刹那的なんだね」
ふっかけるように口にした。なんとなく、彼を見上げることができない。微かな指の動きにすら敏感になりながら、ふたりの体温が混ざってゆくのを感じる。
「遊びに見えますか」
そう言って、アンは握る手に力を込めた。
「どうだろう、分かんない」
右手と心臓が呼応しているように、握られた分だけ胸が苦しくなった。
久しぶりに感じる人間の生ぬるさ、言うことを聞かない胸の奥、とにかく今あるすべてに耐えられなくなって、わたしは、ふふ、と小さく噴き出した。
やっと見上げることができたアンの目元は、頬にかかるゆるくウェーブした前髪でうっすら隠していたが、口角が上がっている。見えた白い歯に、いつもの彼を感じて人知れず安堵した。
「分かんないって。俺、どう見ても」
「いや、そう。分かってるけど」
お互いに確信めいたことを避けて歩いた。それでも通じ合っていることがおかしくて、時折負けたように笑みを浮かべる。
「ねえ、家行こう?」
わたしの言葉を聞いて、アンはぎょっとしていた。表情は変わらないまでも、瞳がぴたりと動かないのだ。わたしは慌てて言い直した。
「違う、お母さんのアパート」
「母の?」
「うん。わたし、今日の話聞いてないから」
ムードもなく、アンは一気に怪訝そうな顔をする。
「でもその調子だと、香月さんから聞いたんじゃないですか」
「ちょっとだけ、ね」
本当は、アンから直接聞くべきだった。だから今からでも、彼の口から――
「じゃあ多分、それで全部ですよ。俺も
突如強い口調でそう言い放ち、アンは視線を外した。歩道脇の街灯を眺め、煌々と光るそれを睨みつける。
わたしは思わず引き下がりそうになった。彼の言葉はきっと本当だ。先ほど香月さんが言っていた。彼は、「何も知らなかった」のだ。お母さんが入院すると決まってもなお、自分の存在を隠され、もちろん依存症であることを知る由もない。
香月さんは、「バーテンとして」彼の苦しみが分かると話していた。アルコール依存症に気づけなかった自分、そして
「……あっちだったよね」
わたしはつま先の方向を180度変えながら、彼に聞いた。
「本当に行くんですか?」
何しに行くんですか、とは聞かなかった。彼もまた大人だった。
わたしが本気であることを悟ったのか、アンは無造作にズボンのポケットに右手を突っ込んだ。その中から出てきたのは、キーケースだった。じゃらじゃらと付く何本かの鍵の中で、一際シンプルな鍵が見える。シルバーのよく見る形の鍵は、つやつやと光っていた。スペアキーだろう。きっと、アンのお母さんのアパートの鍵だ。
「うん、行く」
この
首をかしげる彼の手を、今度はわたしが引いた。