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第73話:手の温度が引き寄せる「今」

 皮膚が触れる。さらさらとしていた。アンの指先が滑るようにわたしの手を取ったことを、遅れて理解した。

「……どうしようかな」

 ひとつしか変わらない年。一個下のアンに、余裕のあるふりをした。

 ああ、小賢しい。こんなことが流れるようにできてしまう。大人になったと言えば聞こえがいいが、こんな時間稼ぎに何の意味があるだろう。

 深夜の静寂に包まれた通りで右手に人の体温を感じ続けていると、ふと、この瞬間から逃げられないことを理解した。そうすると、否応なしに自分の「今」に照準が合う。上がり始めた夜中の湿度やアンのわざとらしく平坦な声は、深夜の暗がりが手伝って、強い引力を持ったようだった。強く、強く、引き込まれそうになる。そこをわたしは、数メートル先の地面を曖昧に見つめながらじっと立っていた。

 久しぶりに、今この瞬間というものを噛みしめた気がした。

 そうして炙り出された自分は、今を生きていなかった。ずっと同じことばかり考えている。「針」について。――「針が刺せなくなった、使い物にならない自分」について。

 朝食を準備している日の当たらないキッチンで、仕事で行った訪問先のお宅で、できなくなったことを何度も噛んでいた。咀嚼しているふりをして、まったく気持ちの整理もできないまま時間だけが過ぎる。看護師として使い物にならない事実がいまだに喉元にある。現実と向き合うふりだけが、徐々に上手くなった。

 いつまでも過去にできない。それはずっと、「今」を蔑ろにしていた。


「少しは悩んでくれるんですか」

 半歩前にいるアンが、冷ややかに笑った。彼はわたしの心がどこかへ行っていたことに気づいていたが、右手はまだ握られたままだった。

「アンって、意外と刹那的なんだね」

 ふっかけるように口にした。なんとなく、彼を見上げることができない。微かな指の動きにすら敏感になりながら、ふたりの体温が混ざってゆくのを感じる。

「遊びに見えますか」

 そう言って、アンは握る手に力を込めた。

「どうだろう、分かんない」

 右手と心臓が呼応しているように、握られた分だけ胸が苦しくなった。

 久しぶりに感じる人間の生ぬるさ、言うことを聞かない胸の奥、とにかく今あるすべてに耐えられなくなって、わたしは、ふふ、と小さく噴き出した。

 やっと見上げることができたアンの目元は、頬にかかるゆるくウェーブした前髪でうっすら隠していたが、口角が上がっている。見えた白い歯に、いつもの彼を感じて人知れず安堵した。

「分かんないって。俺、どう見ても」

「いや、そう。分かってるけど」

 お互いに確信めいたことを避けて歩いた。それでも通じ合っていることがおかしくて、時折負けたように笑みを浮かべる。


「ねえ、家行こう?」

 わたしの言葉を聞いて、アンはぎょっとしていた。表情は変わらないまでも、瞳がぴたりと動かないのだ。わたしは慌てて言い直した。

「違う、お母さんのアパート」

「母の?」

「うん。わたし、今日の話聞いてないから」

 ムードもなく、アンは一気に怪訝そうな顔をする。

「でもその調子だと、香月さんから聞いたんじゃないですか」

「ちょっとだけ、ね」

 本当は、アンから直接聞くべきだった。だから今からでも、彼の口から――

「じゃあ多分、それで全部ですよ。俺も知らないんで」

 突如強い口調でそう言い放ち、アンは視線を外した。歩道脇の街灯を眺め、煌々と光るそれを睨みつける。

 わたしは思わず引き下がりそうになった。彼の言葉はきっと本当だ。先ほど香月さんが言っていた。彼は、「何も知らなかった」のだ。お母さんが入院すると決まってもなお、自分の存在を隠され、もちろん依存症であることを知る由もない。

 香月さんは、「バーテンとして」彼の苦しみが分かると話していた。アルコール依存症に気づけなかった自分、そしてことにされていた自分に、アンは心を痛めていると。

「……あっちだったよね」

 わたしはつま先の方向を180度変えながら、彼に聞いた。

「本当に行くんですか?」

 何しに行くんですか、とは聞かなかった。彼もまた大人だった。

 わたしが本気であることを悟ったのか、アンは無造作にズボンのポケットに右手を突っ込んだ。その中から出てきたのは、キーケースだった。じゃらじゃらと付く何本かの鍵の中で、一際シンプルな鍵が見える。シルバーのよく見る形の鍵は、つやつやと光っていた。スペアキーだろう。きっと、アンのお母さんのアパートの鍵だ。

「うん、行く」

 このに自信を持てないながらも、わたしは歩き出した。ぼんやりとだが、アンのお母さんが住んでいたアパートの場所は覚えている。訪問看護師は地図を頭に入れるのが得意だ。それだけではない。アパートの色、塀の種類、敷地内に敷かれた砂利の感じ、細かな特徴も必死に思い出す。時刻は、2時をとうに過ぎていた。暗い夜道でも分かる自信はなかったが、とにかくあの場所へ行かないといけない。

 首をかしげる彼の手を、今度はわたしが引いた。

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