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第72話:AM2:00の行き先

 その日のバータイムは、香月さんとわたしでお酒を提供した。アンは余程「香月スペシャル」が強いお酒だったようで、奥の部屋で眠ってしまった。あまりにも起きてこないので、生きているか確認しようとこっそり部屋をのぞく。アンは、すやすやと子どもの寝息を立てて寝ていた。


「病み上がりだってのに、悪いね」

「全然大丈夫です」

 結局香月さんと店を回し、1時の閉店時間を過ぎた。閉店後の片づけを初めて体験しながら、普段ふたりがこんな時間までバーにいるのか、と不思議な気持ちを感じていた。

「明日のカフェは11時出勤で大丈夫だから。和子さんにも連絡しとく」

「ありがとうございます」

 深夜まで働いたのは何年振りだろうか。夜、バーで働くことに、年甲斐もなく高揚していた。ティーンのような憧れを持っていたのかもしれない。

「バーテンダーってかっこいいですよね」

 ぽろっと出てしまったわたしのティーンの心に、香月さんはもう反論した。

「あーあー、だめだめ。絶対だめ」

 昭和のお父さんのような振る舞いをする香月さんに、わたしは思わず噴き出した。

「瀬野ちゃんがバーテンなんか捕まえた日には、俺、泣くね」

 安い泣きまねをしている香月さんに、そういう意味じゃないですよ、と伝える、しかし彼はまだ訝しむ目をしてこちらを見ていた。

「手つきが好きなんです。こう、なんていうか、流れるようで、それでいてカチッとした……機械じゃないですが、決まった通りに動いて。それがきれいだと」

 バーテンダーの人たちが描く曲線や直線の美しさは、いつまでも見ていたくなる。それが、このムーディーなフロアで毎晩行われているなんて、そんな素敵なことがあるのかと、わたしは思った。

「アンはいいやつだけどね、瀬野ちゃんの手に負えるかは結構微妙だよ。複雑なやつだからね」

 なにやら香月さんは勘違いをしているようだ。わたしはバーテンダーという職業の人たちのしなやかな手つきにある種の芸術美を感じているにすぎない。

「香月さんにだって思ってますよ。香月さんの手つきはアンと違って、やっぱりちょっと、大人の余韻? みたいなものを感じます。ジガーカップをひっくり返すときとか!」

 ふふ、と笑って見せると、香月さんは「さすが瀬野ちゃん。ちゃんと見てる」と言って、二枚目モデルのように大袈裟に髪をかき分けるしぐさをした。それがあまりにも滑稽で、涙が出るほどだった。

 そのとき、部屋の奥から物音が聞こえた。

「……すみません、めっちゃ寝てました」

 少々機嫌の悪そうな寝起きのアンが、何時間ぶりかのカウンターに戻ってきた。

「ごめん、アン。わたしさっき余計なこと言っちゃった」

 そろそろとアンに寄っていくと、彼はいつも通りの低い調子で「なんでしたっけ。すみません、覚えてなくて」と言った。じゃあ気にしないで、というと彼はまた首をかしげる。

「何か話したいことがあったら言ってね。わたしいつでも聞くから」

「あ、はい。ありがとうございます、なんか」

 一体何のことか、という反応だったが、それでいいような気がした。寂しさと安堵感が入り混じる。


「おい、アン。お前なんか食う? 腹減っただろ」

 香月さんが冷蔵庫を開けながらアンに声をかけた。アンはポケットに入れたままだったスマホを取り出し、時間を見る。ただいまの時刻、午前1時18分。

さすがの彼も目を大きく見開いた。

「寝に来た子だもんな。ソーセージか? サンドイッチか? ……いずれにせよ、酒はもうやめとけよ」

「俺、なんかやらかしました……?」

 にやつく香月さんを見て、アンはフロアに漂う違和感に気づいた。

「そうだな、瀬野ちゃんにお触りしようとしてたっけ」

 それを聞いて、アンは見る見る青くなる。わたしが「してないよ」と彼に笑いかけても、どこか信じきれない様子でわたしと香月さんの間で視線を漂わせる。

「俺が犯罪者になる前に救ってやったんだよ。感謝しろよ」

 香月さんは料理をしながら、ククッとまた笑った。



 もう少しで深夜2時になるというころ、バーの鍵は香月さんによって締められた。

「ふたりとも気を付けて帰ってね」

 香月さんは、わたしにタクシー代を渡して颯爽と帰って行く。すっかり忘れていた。終電を逃しては帰れなくなる人間は、わたしだけだった。一度は断ったタクシー代だったが、いいから、と強く握らされて受け取ってしまった。

 アンは、タクシーが来るまで一緒に待っていると言って、ゆるやかに駅に向かう道を一緒に歩き出した。

「いいのに。アンの家、逆方向なんじゃない?」

 いつの日かの訪問中、アンがとあるアパートの敷地から出てきて鉢合わせしたことがあった。

「瀬野さんと会ったアパートは母がひとりで住んでいた場所なので。俺はまた別のところに住んでるんですよ」

「じゃあアンの家はどっち方向なの?」

「あっちです」

 アンが指さしたのは、来た道を戻る方向でも駅の方面でもなかった。右手逸れていく小さくて暗い道は、今いる大通りの歩道からはよく見えない。訪問でも行ったことがない方向の道だった。


「来ますか」


 アンは、人通りもまばらの夜道でわたしの手を引いた。


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