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第71話:アンにとってのお酒

「すみません、そろそろ俺も準備に入りますね」

 カウンターに置いたままになっていたロックグラスを手に取り、アンは残りのお酒を一気に飲み干した。

「あーあ、大丈夫か? 別に今日はテキトーにしてていいよ。傷心のアンくん」

 からかいながら絡んでいく香月さんを振りほどき、アンは「別になんでもないですから」と言ってカウンターの中に入っていく。わたしも飲み終えたマグカップをシンクへ置き、急いでエプロンを付ける。

「『何かあったの』って聞かないんですか」

 隣に立っていたアンが、ふと首を左に傾けてわたしの顔をぐっとのぞき込んだ。驚いて何も言えずにいると、香月さんがわたしとアンの間に入り込む。

「ぶぶー。女の子にノリで近づこうとする不届き者はつまみ出しますー」

 笑いながら香月さんは軽くアンの身体を押してわたしから離した。

「別にそんなんじゃないですよ。でも話聞いてくれてもよくないですか。俺、夜中に歩いて帰ってきたんですよ? 2駅も」

 ぎょっとして聞き返すと、どうやらアンはぎりぎり終電を逃していた。

「それはお前がちんたら歩いて終電乗り過ごしたからだろ」

「仕事終わりに走れって言うんですか。きびしー」

 間延びした語尾で、アンは香月さんにも絡んでいく。絵に描いたような酔っぱらい方だった。「香月スペシャル、お前にはまだ強すぎたな」と小突いた香月さんを、アンは面白くない顔をして睨む。

 アンがお通しの小鉢を見繕いに冷蔵庫へ行ったところで、わたしは香月さんに身を寄せて、耳打ちするように聞いた。

「アンってこんなでしたっけ……絡み酒タイプだなんて知りませんでした」

「ごめん瀬野ちゃん。普段は大丈夫なんだけど。立ったらアルコールが回っちゃったかな」

 許してやってよ、と代わりに平謝りする香月さんに、それは別に、と手を下の方で小さく振った。


「お酒って怖いよねえ。……なあ、アン?」

 語尾のボリュームをわざと大きくし、香月さんは冷蔵庫から保存容器を出すアンに聞こえるように言った。

「お酒? ああ、そうですねー」

 アンは投げるように返事をした。自暴自棄に走る雰囲気を察し、わたしはアンの元へ自ら駆け寄った。

「何かあったの」

「遅いですよ。俺はもういじけたんでね」

 むくれながら作業するアンは、手をとめるとはない。酔っていても口が回りづらくなっても、彼の手先の動きがぶれることはなかった。

「アンはこの仕事が合ってるんだね」

 手元に見惚れながらわたしが言うと、その手がピタリと止まった。わたしはアンの器用な手さばきに、これまでもたびたび目を引かれていた。

 逸れた話をしてしまった。何の気なしに顔を上げると、すでにこちらを見ていたアンと目が合った。

「合ってますか」

「え?」

「俺、合ってますか。……ここでの仕事」

 どんどんか細くなる声が、今度は大きく揺れた。アンは今にも泣きそうな声で、その場に立ちすくんでいた。

「アン?」

 これまで感情をかんたんに表に出さなかった男の顔が、どんどん歪んでいく。状況を察した香月がアンの肩をポンと叩いた。

「……ちょっと飲ませすぎたな。休もう、アン」

 香月さんはそのまま、アンを奥の部屋に連れて行った。訳も分からずひとりになってしまった。――いけないことを言ってしまった。それだけは明確に分かった。

 どうしよう。

 グラスにお水を注いで、ふたりが入って行った部屋の前を行ったり来たりする。なんと言えばよかったのか、何がよくなかったのか、まったく分からないまま時間だけが過ぎて行く。

 少しして、香月さんがひとりで戻ってきた。

「……すみません、わたし変なこと言ったかも」

 お水を香月さんに手渡す。ありがとう、と言った香月さんは、お水をアンに渡してすぐ戻ってきた。

「悪いね。アン、今日ちょっとイマイチでさ」

 わたしが恐る恐る状況を伺うと、「うーん、俺が言うのもどうかって感じなんだけど、……少しだけ」と香月さんは言って重い口を開いた。

「実は、アンのお母さんが入院したの」

「どこか具合が悪いんですか」

 あー、うーん、と香月さんはさらに切れが悪くなる。少しの間のあと、香月さんはぼそりと言った。

「……アル中。そして、なんかその依存症治療のための入院? みたいな」

「アル中?!」

「そう。しかもアンにお酒飲んでたのを隠してたらしくてさあ。缶とか瓶とか全部、アンが来る前に始末してたんだって」

 ごみの始末、それは心当たりがある話だった。自然と結んだ唇に力が入る。一方で、一言話し始めると、香月さんは堰を切ったように詳細を教えてくれた。

「知り合いの社長さんと飲んでらしいの。基本外じゃ、もう分かんないっしょ。一緒に住んでるわけでもないし。……アンは気づかなかったことにショックを受けているんだよ。バーテンしてるとね。俺ら医者じゃないけど、なんとなく察することもあるからさ」

 いつも明るく軽口を叩いている香月さんは、苦虫をかみつぶしたような顔で話をする。

「極めつけは、ずっと生活費を入れてたのに『子どもはいない』って言って飲んでたみたいで。それも、病院にまで。だから入院するまでアンは何も知らなかったらしい。……お母さんなり気遣いなのかもしれないけどさ。いずれにせよ、すぐは受け入れられないよなあ」

 香月さんは、不憫そうにアンが休む部屋の方向を見つめた。


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