急いで着替えを済ませ、「Toute La Journée」へ向かう。半地下の窓からはすでに明かりが漏れていた。
「すみませんでした。お休みして」
わたしはお店のドアを開けるのと同時に言葉を発した。
「お。治ったんだね。よかった~」
気の抜けた香月さんの声がカウンターの内側からした。しかし、一番に目に入ったのはカウンターのイスに座ってグラスを持つ、アンの姿だった。
「この前はありがとう。夜にごめんね、わざわざ……」
あの日を思い出し、どこかぎこちなくなる。
「治ってよかったです。今日もダメかなと思って、香月さんとふたりで金曜日を回すつもりで気合い入れてたところです」
そう言ってアンは、グラスを少しばかり持ち上げた。ロックグラスに入る氷が回る。
「嘘つけ。このかっこつけが」
香月さんがカウンターの中でグラスを拭き上げながらニヒルな笑みを浮かべる。釣られてアンも歯を見せて笑う。そしてまた一口、グラスに口を付けた。
「何飲んでるの?」
アンがひとりでお酒を嗜んでいる姿は珍しかった。付き合いでお客さんからもらうお酒を、カウンターの中で立って飲んでいるところしか見たことがない。
「これですか? えっと、……香月スペシャル。瀬野さんはもっと元気になってからもらってください」
アンは機嫌よく笑っていたが、どこかくたりとしていた。髪の毛のセットも整った眉も、いつも通りだ。姿勢も悪いというほどではない。しかし、どこか今日のアンは、目がずれた編み物のような、何と言ったらいいか分からない違和感を放っていた。
「……あ、芦谷さんでしょ」
わたしは昨日の心配事を思い出した。わたしが欠勤した代わりに、ランチタイムの応援にアンが入ってくれていたのだ。
「芦谷さん? 別に何もなかったですよ。順調、順調」
アンは気に留めるそぶりもなく、言葉は流れていく。香月さんまでも一切突っ込むこともなかった。
「芦谷さんと不仲じゃなかったでしたっけ、アンって」
わたしは控えめな声量で香月さんに聞いた。香月さんは、ああ、うん、と否定しない。そこに、アンが「聞こえてますよ」と割って入った。
「あのおばさん、愛想の悪さはそのままでしたけど、頭ごなしに来る感じが減りましたよね」
アンは不思議そうにロックグラスを眺めて言った。ぐるんぐるんと回る大きな氷に、自然と視線を持っていかれる。
「ランチも以前はひとりでも余裕で回せる程度しか客入りなかったのに、昨日はちょっと厳しかったです。ずっとではないんですけど。それでおばさんも、『そうよ、もう最近は忙しいんだから。雅也さんに言っておいて』なんて言うから」
自分から芦谷さんの口調をまねたくせに、アンは、ふふ、と笑いを堪えきれなくなっていた。香月さんは、もうひとりシフトは厳しいかあ、とぼやきながら、手元で何やら作っている。
「どれもこれも、瀬野ちゃんのおかげ。すごいすごい」
本当ありがとね、と言って、香月さんはわたしにノンアルコールのホットドリンクを出してくれた。早速口にすると、甘垂れないこのホットドリンクはあの味に似ていた。
「これ、クラフトコーラのシロップですか」
「そう。シロップ多めにしてお湯で割ったの。ショウガのすりおろしも入れてね」
香月さんは卸金具の上にいたショウガを指差しながら言った。
「こんな飲み方もできるんですね。コーラって言うと炭酸のイメージが強いですけど、ホットにアレンジも行けますね」
わたしはマグカップを両手に持ちながら、冬のメニューにと考えていた。暑い夏がすぐそこまで来ている、しかしそれも数か月だ。炭酸ののど越しの良いドリンクメニューから、温かくほっこりするドリンクメニューに売れ筋は変わる。このお店に来てくれる客層を踏まえた上で、冬の準備も大切にしていきたい。
「冬メニューにいいなぁって顔してる」
香月さんはカウンターに立つと、人の表情の機微を見逃さない。
「へへ、バレちゃいましたね。これとってもおいしいです。この冬のホットドリンクはいろいろ考えたいなと思ってたんですよ」
「瀬野ちゃんは案外、商売人。いいねえ、若い人が動いてくれる職場は」
急に年老いたことを言う香月さんは、喜んでいるように見えた。わたしも自然と口角が上がる。この雰囲気が「Toute La Journée」の一番のよさだ。どうしたら、もっとこの場を――
すると、アンのスマホの電話がフロアに鳴り響いた。ちょっとすみません、と言ってアンは通話ボタンを押す。
「はい、代家です」
ゆっくりと席を立ち、バーの外へ出て行った。取り残されたグラスは、三分の一ほど残っていた。
「今日、アンなんかあったんですか。お酒飲んでるの珍しいなって思って」
わたしは香月さんにふと思ったことを聞いてみた。
「ちょっとね。あとアンが言うか分かんないけど、家のことでいろいろあったみたいで」
そういうときはお酒で流すのが一番よ、とバーのオーナーらしいことを言う。香月スペシャルはどうやら強いお酒のようだった。
数分もせず、アンが戻ってきた。すでにスマホは服のポケットの中で、手ぶらで帰ってきた彼はまた一段と薄くなっていた。