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第68話:植木ももえ

 植木さんのマンションがあるあたりは、植木という看板が多く目に入る。月極駐車場、介護タクシーの会社、そしてマンションの名前に。

 たまたまかもしれない。確証はなかった。そして辿りついたマンションは、オフホワイトが基調の落ち着いた建物だ。エントランス部分には、「植木マンションⅣ」と書かれている。

 わたしは建物名を横目に、エントランス奥にあるエレベーターへ乗り込んだ。


 部屋の前にあるインターフォンを押すと、ドタバタと騒がしい音がした。しかしすぐに玄関のドアが開く。

「こんにちは! あなたが訪問看護師さんねー!」

 高揚した声でわたしに話しかける彼女は、今にも抱きついてきそうだった。

「瀬野です。よろしくお願いします」

 まだ玄関先だ。眞鍋精神科クリニックの名前を出していいのか、訪問看護師と名乗っていいのか、気にする人なのかどうかが分からない。わたしはひとつひとつの地雷を踏まないように、丁寧に避けて歩いた。

「どうぞ、入ってください!」

 まるで10代のようなフレッシュさでわたしを室内に招き入れる。自分より年上には到底見えなかった。「来て! 来て!」と手招きをする彼女のすぐうしろをついていくと、廊下の先の部屋に驚いた。

 一人暮らしとは思えないほど広いリビングに、使いきれない横幅のアイランドキッチン。4階のベランダからの見晴らしはよく、ここから飛び降りようとしたのだと考えただけで足がすくんだ。

「訪問看護は初めてなの」

 そう言って持ってきたトレイの上には、ペットボトルのココアがふたつと、チョコレート菓子の山だった。

「植木さん、どうぞお気遣いなく。看護師は毎週来るので、おもてなしは不要で……」

 丁寧に飲み物や食べ物をお断りしていたところ、植木さんは言葉をかぶせて話した。

「ももって呼んで! どうせ瀬野さん、年齢近いでしょ? いつく? 教えてよ!」

 話の勢いが、次から次へとやってくる小波のようだ。わたしは「27です」とだけ伝えると、植木さんはいっそう喜んだ。

「なーんだ! 年下だったのね。じゃあで良いわ」

 そう言ってにっこり微笑むのだった。

、親しみを込めてニックネームで呼ぶのも素敵なんですが、今回は植木さんと呼ばせてくださいね。あと、こちらのおもてなしも大丈夫ですから。負担になっては大変です」

 やんわりとお断りする。

「負担? 全然よ。だって親が補充してくれるお客さん用のものだから。それに訪問看護師さんとは仲良くしなさいって言われてるの。別に親の言いなりってわけではないんだけどね」

 終始にこにことしてこちらと話す彼女は、一見すると無邪気な少女だが、年相応の肌や目じりのしわとは不一致だった。そして口にする「親」の話。両親の財力すがりながら生活を営む彼女を、いまいち捉えることができなかった。

「ご両親が準備してくださるのですね。でも本当にお気遣いなく。受け取れない決まりになっているんです。申し訳ないです」

 定型文で話していると、植木さんは急に顔を歪ませた。

「別にこれくらい気にしなくていいって言ってんじゃん」

 みるみるうちに険しい表情に変貌を遂げる。いつしか「」と呼ばないことにも腹を立て始め、彼女はテーブルを叩き始めた。苛立ちをこんなに露わにして、それでもなお「」と呼ばせたいようだった。

 わたしはどうしたらよいか分からず、「」と呼ぶことに、なし崩し的に同意せざるを得なかった。

かあ。まあいいよ! 仕方ない。だって、看護師さんもお仕事中だもんね」

 呼び名が決まると、彼女は急にわたしへの理解を示し始めた。仕事ペラペラと話す。これがパーソナリティー障害だ。

「下の名前は?」

「わたしの?」

「うん、そうそう」

「夏希です。季節の『夏』に希望の『希』で」

 すると、ももさんはスマホを取り出し、なにやらぽちぽちと打ち込み始めた。ふいスマホ画面を見せられ、「これで合ってる?」と聞かれた。

「はい、合っていますよ」

 わたしが名前の漢字をチェックすると、彼女はまたスマホを自分の方に引き戻して操作を始めた。そして、いくらもせずその手がとまると、「わあ、やっぱりね」と言って大袈裟に喜んだ。

 わたしが首をかしげながら彼女を見ていると、彼女はそれに気づいてこちら側にスマホの画面を向けた。

「なっちゃんとの相性! やっぱり最高! そうだと思ったのよね」

 聞きなれないというニックネームで呼ばれ、見せられたのはネット上の占いだった。会員登録しているようで、凝ったサイトの中心にぎらついた装飾品をまとうおばさんの写真が見えた。ピアスやネックレスだけではない、何本もの指に大きな宝石がついている。髪の毛はウィッグなのか、異常なまでにふんわりとしたパーマヘアーだ。濃いアイライナーがしわと喧嘩する。

 そのあとも、植木さんはつぶつと早口で独り言のように話し続けた。

「……占い、お好きなんですか」

 耐え兼ねて、わたしは独り言の応酬に割って入る。

「うん。好き。とってもね。だって未来が分かるんだよ? 素敵じゃない?」

 彼女の瞳には違和感があるほど光が入り込んでいた。吊り上がった口角に、恐怖にも似た感情を抱く。占いへの信頼は、人間関係に不安を抱えやすいパーソナリティー障害の特性からくるものなのか、自分で決めることができないある種の依存的欲求を補っているのか。

 わたしは彼女との関わり方に頭を悩ませた。

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