今日これから起こるであろう「Toute La Journée」のひと悶着に不安でたまらなかった。 しかし、一度頭を枕に付けてしまうと、なかなか起き上がることができない。
ゼリーを口にし、薬を飲んだあと、またスマホだけを握りしめてベッドに横になっていた。今日はそれだけで重労働に感じる。ベッドの中で本を読んだり、動画を見たりすることもままならなかった。
目を開いたり閉じたりしながら部屋の天井を見ていると、アンから返信があった。
――こんにちは。その後どうですか。熱下がりましたか?
昼のシフトについては触れていなかった。
――まだあるんだけど、あと少しって感じ。
――金曜日、厳しかったらまた連絡ください。無理なく。では。
すぐに話を切られてしまった。ランチタイムだけとは言っていたが、そろそろ出勤の時間になってしまっただろうか。
結局、そのあともアンから連絡はなく、金曜日になった。
体調の方はすっかり改善し、熱が下がると気怠さだけになった。
「ご迷惑をおかけしました」
午後からクリニックに出勤すると、まず謝罪行脚だ。ファミリーパックのお菓子を持っていき、眞鍋院長、訪問を代わってくれた常勤さん、受付の佐藤さんにお菓子を渡す。
「気にしなくていいんですよ。みんな調子が悪い日はありますから」
眞鍋先生はお菓子の受け取りを断りながらそう言った。
「そう言えば、急で悪いんですが、新しい利用者さんが入りました。赤城さんの枠が開いていたので、退院まではそこで見てもらおうかと思うのですがどうでしょう」
そう言って渡されたカルテには、「境界性パーソナリティー障害」と書かれていた。
――植木ももえ、30代女性。2年前に境界性パーソナリティー障害と診断。通院治療中。通院や内服の自己中断が多く、心理士と関係性を築けず心理療法も進んでいない。付き合っていた彼氏との別れ話時、逆上し、4階のマンションのベランダで自殺をほのめかし、警察が出動する事態となる。以前にも、家族や彼氏とのトラブルで警察沙汰になっている。実母の同意のもと一時的にXXX総合病院精神科に入院後、XXXX年XX月に退院。
――訪問看護の導入理由:通院の継続が困難のため。話の傾聴、内服管理、異常の早期発見。
「今は、また治療モードなんですよ」
カルテに目を落とすわたしに、眞鍋院長は言った。
今は治療をする気になっている、という意味だった。
自己中断を繰り返してクリニックに来なくなる患者は多い。精神科は特にそうだ。境界性パーソナリティー障害だけでなく、さまざまな精神疾患でそれは生じていた。
「警察沙汰になったひとに、看護師ひとり訪問で大丈夫ですか」
どうしても気になる。わたしが他の科出身だからかもしれない。他の看護師は気にならならないのだろうか。個人宅という密室で、精神的に不安定になりやすい人と向き合うのはいまだに勇気がいる。
「今は大丈夫だと思います。ただ今後はどうか分からないので、担当制ではなく複数でみてもらおうとは思っています。退院直後なので週2訪問も考えていたのですが、本人がそこまで行くとまた拒否に入りそうだったので……様子見の週1訪問です。今のところ」
眞鍋先生は少し申し訳なさそうに振る舞った。
「分かりました。今日これから初回訪問ですかね」
「はい。契約は済んでいますので、よろしくお願いします」
訪問先の地図を渡される。クリニックから比較的近い、住宅街だった。
貼り付けられたショッキングピンクのふせんには、入室方法が記載されていた。マンションの入り口にオートロックはないため、そのまま4階まで上がり、玄関前のインターフォンを押して入室する。
「現状の注意事項などありますか」
総合病院から退院してきたということは急性期を脱しているようだが、念のため眞鍋院長の見立ても確認したい。訪問看護導入の理由には、「話の傾聴、内服管理、異常の早期発見」と具体的なようでかなりあいまいなことが書かれている。どの利用者にも共通して言えるキーワードであることが多い。
「今はやる気になっているので、とりあえず話を聞いてきてもらえれば大丈夫ですよ。内服もまだ飲めているころだと思いますし。……もしかしたらお母さんがマンションの部屋にいるかもしれません。そのうち帰られると話していましたが、もし会えたらそちらの方もお話伺ってみてください」
「分かりました」
わたしは眞鍋先生の話にメモを取りながら、返事をする。
精神科は家族看護が必須だ。利用者本人だけでなく、家族や患者の周囲で支えている支援者にも目を向けるのは、それほど周囲への影響も大きく、苦悩する支援者が多いからかもしれない。
「太田さんたちと交互に行ってもらおうと思うので、瀬野さんの訪問自体は、次は再来週になると思います。複数の看護師での訪問になることを念のため再度伝えておいてください」
眞鍋先生はそう言いうと、とりあえず今日は無理されずに、とだけ残して診察室へ向かった。
わたしは読みかけのカルテを胸に抱え、やや急ぎ足でロッカーに向かう。訪問着のスクラブには、1週間ぶりに袖を通した。週2勤務だと、1日休むだけで浦島太郎のような気持ちになる。
「行ってきます」
受付の佐藤さんに声をかけ、訪問バッグを握りながらクリニックをあとにした。