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第66話:熱のせい

「患者さん。わたしがいた救急外来は違うんだけど、基本的に夜の病棟は寝てる人ばかりだから、日中みたいにケアや検査もないし、手術での出入りもないの。緊急時を除いてね」

 看護師になる理由はさまざまある。看護師に憧れて目指した者、医学部入試に敗れ医者を諦めた者、命を救いたい者、お金が必要な者、社会的信頼を得たい者、……人の数だけ理由がある。

 夜勤専従を選ぶ人は、夜型の生活の方が暮らしやすい人が多くいたが、人付き合いを苦手としている人も劣らないほどいた。アンに、わたしが知る夜勤者の話を二、三する。

「瀬野さんは、夜に働くのはどうなんですか」

「わたしは別に。こだわりないタイプかな」

 仕事と思えば、昼夜関係のないシフトもこなす。それが大学病院でのわたしだった。20代の身体にそこまで夜のシフトはひびかない。2交代制だったこともあり、生活リズムが大きく狂うこともなかった。

「じゃあ、瀬野さんは僕たちとは違いますね。よかった」

「え?」

「いえ、気にしないでください。……今は瀬野さんが入ってくれて、だいぶ楽になりました。ですから、今週は気にせず休んでください」

 彼は、じゃあ、とだけ言って帰っていった。躊躇なく、マンションの階段を下りていくなか、アンは一度も振り返らなかった。それがなんだか物寂しい。自分にとはまだ思えなかった。



 翌朝、目が覚めると、指先のむくみが気になった。グー、パーと何度かしてみても、手袋をしてるような違和感がある。にぎにぎと手に力を入れても、やはりすぐには治らない。まだ本調子でないのかもしれないと思いながら、ベッドの頭元に置きっぱなしだった体温計にふたたび手を伸ばす。ほとんどなにも考えずに熱を測る。液晶画面に表示されたのは、39.4度という数字だった。

 どこでもらってきたんだろう。夏風邪はしぶとい。

 病院を受診するつもりでいたが、しばらくは家の中で動くことだけで精一杯だ。明日以降の勤務のために感染症の検査だけでもしたいと思ったが、それも今日は厳しそうだ。

 わたしは、ゆっくりと身体を起こした。ベッドのマットレスがずっしりと沈む。気怠さは昨日よりひどかった。頭を自然と手で押さえる。頭痛は少し良くなった気もするが、まだ残っていた。


 結局、木曜日の朝になっても、体調は改善しなかった。起床してすぐ、香月さんにカフェタイムの欠勤連絡のメッセージを打つ。そしてそそくさとトイレと洗顔などを済ませると、冷蔵庫からゼリーを取ってからベッドに戻った。ゼリーはアンが買ってきてくれたものだ。吸いながら、ベッドの頭元のボードに身を預けた。

 そのままうとうとし、次に時刻を見たときには朝の9時を回っていた。随分寝ていた。

 わたしは来ていた連絡にすべて目を通しながら、飲みかけだったゼリーを吸った。ペットボトルのお茶も、そばにあるのとないのとでは大違いだ。ビニール袋の中身を確認しながら、アンが買ってきてくれた物ひとつひとつに感謝をした。


 スマホに来ていた通知に目を通す。SNSのコメント通知と好きな作家さんの新刊アラームだ。それらをチェックしていると、最後に香月さんからメッセージが返ってきていることに気づいた。

――瀬野ちゃん! 大丈夫か!

 香月さんは、文章の入りからハイテンションだった。想像が容易だ。そしてアンとは対照的に、長文のメッセージだった。わたしは親指でスクロールする。

――ダブルワークの疲れだろうねえ。もううちに来て4ヶ月くらいだし。きっとゆっくり休めってことなんだって!

 文面に、彼の人柄がにじむ。淡泊かと思いきや、彼はよく人を見ているし、気遣いもできる。良い上司だ。

 熱のせいか、メンタルのぐらつきも大きい。香月さんに感謝しながら、またスクロールする。

――仕事は気にしないで! 今日の昼のカフェは、ランチタイムだけアンにヘルプに行かせるから。じゃあゆっくり休むんだよ~。 香月

 ふわっと見えた文章に、わたしは瞬きをした。

 アンがランチタイムに?!

 芦谷さんとアンが一緒に働くと言うのか。わたしは穏やかならぬ展開にひとり頭を抱えた。

 スマホで時刻を確認する。ランチタイムまでまだ時間があった。わたしはアンに急いでメッセージを打った。

――この前の夜はありがとう。おかげさまで……

 スマホをタップする指がとまる。おかげさまで、なんだ? 熱は下がっていないし、出勤できる状況にも戻ってない。

――この前の夜はありがとう。おかげさまで朝ごはんに困らなかった。ゼリー……

 なんだこれ。アンはお母さんじゃない。なぜか上手く文章が打てない。

――この前の夜はありがとう。ゼリーは朝いただいたよ。とても助かりました。

――ところで、今日のランチタイムは代わりにシフト入ってもらったのかな。

 打っては消して、打っては消してを繰り返し、たった2行のメッセージを打つ。送信ボタンを押すと、ため息が漏れた。アンは芦谷さんを嫌っている。ふたりが同じシフトだったのは、1年半ほど前のカフェタイムが最後になっていた。


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