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第65話:真夜中の見舞客

 インターフォンの高い音が室内に響く。わたしは反射的に飛び起き、雑多に置いていた衣服などの障害物を避けながら玄関に辿り着いた。ドアチェーンを外し、急いで鍵を開ける。

「こんばんは」

 外廊下の照明によく照らされるアンは、高い背丈の分、床に影が長く伸びていた。わたしは、ああ、そうだよね、と慌てるばかりでまともに挨拶もできない。髪の毛が跳ねていないか、部屋着で出てしまってよかったのか、頭のてっぺんから爪の先までが途端に気になる。

「どうですか、体調」

 右手には半透明のビニール袋があった。時刻は23時半。あたりの家々も、電気がまばらになっていた。

「少し寝たからなんとか。……あれ? そう言えば、まだお店やってる時間じゃ……」

 バーで働く香月さんとアンのシフトは、日付が変わって午前2時までだ。1時までの営業のあと、さらに片づけなどがある。閉店時間ぴったりに帰るお客さんばかりでもない。「片づけ」という名の最後の接客時間があると、以前香月さんが話していた。

「ああ、早上がりさせてもらったんです。電車無くなるんで」

 アンはなんでもないような顔をして、こちらを見た。

「よかったのに、全然」

「そうもいかないでしょ。香月さんも心配してました。明後日のカフェタイムも気にしないで、って。今熱なら多分無理だろうって」

 少人数でやっていると1人抜ける穴の大きさを実感する。わたしが沈んでいると、アンが口を開いた。

「いいんですよ。ロボットじゃないんだから。……それで。はい、これ。風邪薬に飲み物、あとはなんかいろいろ」

 そう言ってアンはビニール袋の口を広げ、中をこちらに見せた。先ほどの電話でないと話した風邪薬やゼリー飲料などが多いくらいに入っていた。

「いくらだった?」

「気にしないでください」

 香月さんに払わせますんで、と言ってアンは小さく笑う。釣られてわたしの表情も緩んだ。

「ほんと、何も気にしないでいいですから。バーも、今日はちょうど暇でしたし。22時以降は香月さんひとりでも全然回るくらいで」

「それは……良かったのか、悪かったのか」

「金曜日じゃないんでね。まあ大体こんなもんですよ。瀬野さんが熱を出したのが、週のこのあたりでよかったです」

 彼が気を遣っているのか、本当のことなのかは分からなかった。いつも閉店間際までシフトが入っていないわたしは想像するしかない。


 アンは、仕切り直すように言った。

「それで、何度なんですか? 今」

 少しは下がりましたか、とわたしに聞き直す。

「どうだろう。測ってなかったの」

 今体温計取ってくる、と言おうとしたとき、すっとアンの手が伸びてきた。額に当たる大きな手はあたたかくも、どこかひんやりとしていた。

「……全然あります」

 熱で頭が働かない中でも、急に鮮明になる感情があった。そうかな、と曖昧な返事を返すのが精一杯で、苦し紛れの笑顔を見せる。

「分かんないんですか。微熱とかの騒ぎじゃないのはすぐ分かりますよ。もう早く横になってください」

 ほんの少し近づいた身体がまた元いた位置に戻る。そしてシッシッと、アンは手払いをするのだった。

「じゃあ、終電なので。また」

 彼が外に足先を向けた。しかし一度踏み込んだ足は、なぜかまたこちらを向いた。不思議に思い首をかしげると、アンは「明日は休んで、その数日無理そうだったら連絡してください。メッセージでもいいですから」と付け足した。こういう男だったな、と思い出す。

「そんなに休めないよ。すぐ金曜日になっちゃう」

 次のバータイムは金曜日だ。さっきだってアンは言っていた。金曜日じゃないから大丈夫だったと。

「大丈夫ですよ。今までだって、男ふたりでやってきたんですから」

 それは重みのある言葉だった。

 香月さんとアンには、不思議なつながりを感じる。年齢は10歳以上離れているのに、友達のような距離で物を話すのだ。やりとりが上司とスタッフには見えない。アンは、一応の敬語を使うが、鋭い返しはタメ口になっているし、敬語を使うと言っても特別が感じられるわけではなかった。

「ふたり体制って、結構厳しくないの。バーのことは詳しくないけど」

 急に強まったふたりへの興味に、わたしは探るような質問をアンに投げかけていた。

「あのくらいの規模なら、まあ。でももう1人くらいはいても良かったんですよ。休み取れないし」

「ずっとふたりなの?」

「もう少し、スタッフやお手伝いの人がいたこともあったんですけど……まあ、なかなか続かないですよ。夜の仕事は」

 20歳のころにはもう香月さんの元で働いていたアンは、あのお店の変遷を知っている。聞いてみたいところだが、体中で寒気がきつくなってきた。ドアを開けて外の空気を浴びているからなのか、体調が悪化してきているのかは判断が付かない。

「へえ、看護師とは逆だね」

「そうなんですか?」

「うん。夜勤専従の看護師は、結構ずっとそのまま。もう日勤には戻れないことが多いよ。わたしの周りの人は、だけど」

 わたしは思い返しながら話をした。月20日も働かずとも、日勤より給料はいい。平日の日中に病院や買い物に行くこともできる。混んでない時間帯に自由にしていられるのは、夜勤の大きなアドバンテージだ。

「あと、話さなくて済む」

 ぼそりとつぶやいた言葉に、「誰と?」とアンが聞き返した。


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