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第64話:38.7度

 カフェでの仕事を終えて帰宅すると、なんだか寒気がしてきた。電車の中で感じていた頭痛は強まる一方で、ズキンと何度も響いてはわたしを苦しめた。

 確かこのあたりに……。

 わたしは引っ越してから一度も使っていなかった救急箱を取り出した。プラスチックケースの救急箱を開けると、内服薬や絆創膏の隙間に体温計が刺さっている。無表情でそれを取り出すと、わたしは自分の脇にあてがった。「L」のアルファベッドが点滅している。しかしそれもすぐに変わった。体温計の液晶画面は、「33.4」、「34.9」、「35.5」とゆっくり上がっていく。

――ピピピッ、ピピピッ。

 体温計が鳴り、再び液晶を見ると、「38.7」と記されていた。

 数字を確認したとたんに身体が重くなる。先ほどまでとは比にならないほど、気怠さが増していた。頭痛、寒気、倦怠感。なにか風邪でももらってきてしまったのかもしれない。わたしはシャワーで簡単にお風呂を済ませ、食事もそこそこにベッドへ横になった。一人暮らしはこういうときに困る。食事を代わりに準備してくれるひともいなければ、布団をかけ直してくれるひともいない。

 わたしはクリニックがやっているうちに欠勤の電話をかけた。受付の佐藤さんが電話に出て、発熱とその他の症状について報告する。明日は水曜日だ。訪問看護のあとにバーでの勤務が待っていた。

 わたしは「金曜日までには治っているような気がするので……」とひどく曖昧な言葉を使って、明日水曜日のクリニック勤務を休ませてもらった。臨時で常勤さんに訪問を回ってもらう算段が付いたのだった。

 そして、握っているスマホをそのままに、今度は「Toute La Journée」へ電話をかける。

 枕元に置かれたデジタル時計17時50分をさしていた。この時間であれば、バーの電話に香月さんかアンが出てくれるはずだ。そう思って電話をかけると、3コール目鳴ったあとに電話に人が出た。

「はい、Toute La Journéeです」

 聞こえたのは、アンの低い落ち着いた声だった。

「あ、アン?」

 なんと言っていいか悩み、名乗ることを忘れた。目的があって普段かけない電話をかけているのに、自分の浮いた声がわざとらしくて仕方がなかった。

「瀬野さん? どうしたんですか」

 そわそわしていたのに、耳元近くで聞こえた彼の声に不思議と安堵した。

「申し訳ないんだけどちょっと風邪引いたみたいで、明日の勤務を休ませてもらえないかと……。そこに香月さんいる?」

 わたしは香月さんを電話口まで呼び寄せるつもりだった。しかしアンはあとの話をまるで聞いていないようで、病状のことばかり聞いてきた。

「大丈夫ですか」

「ああ、うん……」

「熱ですか? 何度?」

 何度? と、先ほどより低く少々荒っぽい声が鼓膜を揺らす。

 アンは時折タメ口になる。一個下とさほど変わらない同年代だというのに、普段は律儀に敬語だ。きっと素はタメ口をきくときなのだろう。無理に敬語なんて使わなければいいのに、とわたしはいつもどこかで思っていた。

「38.7度。でもまあ、全然大丈夫」

 帰ってきてすぐに化粧を落とし、軽くシャワーを浴びて部屋着に着替えたのが功を奏した。ベッドに入ったとき、しばらくは起き上がれないような身体の重さを感じた。でももう寝るだけだ。いくら横になったって大丈夫だと思えるだけで、気分が少し晴れた。

「大丈夫じゃないですよ。食べ物とか薬とかあるんですか?」

「えっとー…、探してみる」

「探してみるって……。まったくもう」

 アンはなにか続けて言っていたが、聞き取れなかった。どうせ小言だろうといい加減に返事をして受けながす。

「……こっちは気にしなくて大丈夫ですよ。あと俺と香月さんで回しますから」

 仕事は休めることになった。香月さんは休みだったが、呼び出すということなのだろう。アンは香月さんに一切変わることなく話を続けた。

「本当にごめん」

「いえいえ。じゃあ終わったら」

「え?」

「え、じゃないですよ。話聞いてました? ……あ、すみません。お客さん来たので。待ってなくていいですから。インターフォンで起きてください。では」

 アンは淡泊に電話を切った。わたしが「ああ、待って!」と言いかけたときには、一足先にスマホから「ツーツーツー」という音が聞こえていた。

 働いていなかった頭が、ものすごいスピードで動く。飲み物や薬を買ってきてくれる、といったような趣旨だったような気がするが、よく覚えていない。そのうちまた頭の中にもやがかかるようになり、いよいよなにも思い出せなくなった。

――部屋着のままでいいのか。

――玄関だけでも掃き掃除くらいしておこうか。

 きちんとしないと、となけなしの社会性が騒ぐ。

 バーを終えてから来るのであれば、日付は変わったあとになる。アンは「今から寝たらちょうどひと眠りくらいでしょ」などと言っていた気がする。

――でもそんな時間にドラッグストアはやってるのか。今はコンビニでも風邪薬くらい買えただろうか。

 またあれこれ考え始めたとき、まぶたが重たくなり始め、わたしは眠りに落ちて行った。


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