相当喉が渇いていたのだろうか。しかしそれと同じくらい、喉が異様にかさつく。つばを飲み込む間、彼女は「流行りに乗ろうとしてる」とまた小言を言った。
「前はあんなやっすい居酒屋みたいなのもなかったでしょ。ここの空気壊してると思うけど」
どんどん砕けた口調になる彼女は、壁にもたれかかるコルクボードを指差した。少しずつ増えてきた写真は、わたしが知らないお客さんまで写っている。わたしだけのものではなくなっていた。それが妙に嬉しくなって、最近はいつしか眺めている時間も増えていた。
ぶつぶつと文句のとまらない彼女を見て、ふと、笹野さんが重なる。――うつ病を患って長い、30代女性。強い不安からヒステリックに騒ぎ立て、興奮が収まらないと自殺企図を繰り返す笹野さん。
目の前の女性客と風貌はもとより、声の柔らかさも選ぶ言葉も選択肢も違う。
なんだろう、と思いつつも、「……思うようにいきませんね」と、同情にも似たなにかが口を滑らせた。
はい? と、女性がこちらを見る。語尾を半音上がる声に圧を感じた。
ここで表情を変えるわけにはいかない。相手にペースを掴ませないことは、先輩ナースの伊倉さんが教えてくれた鉄則だ。
わたしは伊倉さんの表情を思い出しながら、いつもよりほんの少しゆったりした口調で目の前の彼女に向き合った。
「思うようにいきませんね、と言ったんです」
彼女は、そんな分かり切ったことを、という冷ややかな目つきをしてこちらを睨んだ。
「クラフトコーラはスパイスでシロップを作っています。漢方薬でも使われていて、シナモンなんかは胃腸の働きを助けたり、レモンは疲れを取ったりすると言われています。スターアニスは……」
「覚えられない。それに、そんな」
「ええ、あなたがそんな効能を求めて注文したわけではないかもしれません」
「じゃあなんで」
まくし立てるときの瞳が本当にそっくりだった。もしかすると、この女性も笹野さんも、誰かと同じ目をしているだけなのかもしれない。
「ぱっと目につく言葉を大事にしたいんです。使っているスパイスの効能に目がとまったら、今日を特別にしたいと感じたら、その気持ちをもっとよく確かめてほしいと思ったんです」
忙しい日常の中で、どうしても流れて行ってしまう感覚がある。それを拾う作業は、精神科訪問看護の仕事とよく似ている。
女性は、「あっそ」と拗ねた若い子のような返事を残し、サンドイッチを食べ始めた。クラフトコーラも味わう様子もなく、勢いに任せ口から流しいれている。いくらもせず、彼女はお会計をして店を出て行ってしまった。
お会計を済ませ、ふたたび芦谷さんがいるキッチンへ向かう。
「芦谷さん、あの方知ってますか」
わたしはどれくらいよく来ているのかが気になった。新人と言っても、もう3ヶ月以上は週3回、オープンから閉店までいる。そろそろどなたが常連さんも分かってきたころだと感じていた。
「前から来てはいるけど、たいした数じゃないわよ。あんな常連みたいな口ぶり、よくできるわね」
芦谷さんは、疑いの眼でドアの向こうを見た。バンブーチャイムの揺れはもう止まりかけていた。わたしは先ほどの女性の意図がつかめないまま、自身の心に刺さったままの言葉を反芻していた。
「『やっすい居酒屋』ですって」
ふふふ、と思わず苦笑を浮かべる。芦谷さんは、先ほど下げてきたお皿やグラスをシンクの中で洗ってくれている。
「どこの誰かもわからないのに、受け取っちゃだめよ。ばかね」
呆れたように言い放った言葉に、わたしはもう温かみを感じ取れるようになっていた。
しかし彼女に受け入れられたあともなお、彼女の愛想が良くなることはない。曲者であるに代わりはなかった。根気強く、あるいは仕方なく離れられず一緒にいる人以外は、なかなか分かり合えないのではないだろうか。
「芦谷さん、絶対子どもと関わる職業に向いてない。伝わらないですもん」
わたしは苦笑を浮かべながら言った。
フロアにはもう以前のようなぴりついた空気はない。芦谷さんも、「相変わらず失礼なひとね」と言って、視線を外しながらも笑顔を見せるのだった。
ふと、芦谷さんが数秒だけ、わざとらしく誰もいないテーブル席の方を眺めた。急になにかを言い淀んだように見えた。しかしそれもわたしと視線が合うと、観念したように彼女は口を開いた。
「……子どもと関わる仕事もしたことがあるわよ。なんなら一番長かったんじゃないかしら」
食器を拭きながら、片づけを終えた芦谷さんがにっこりとこちらを向く。
「本当に? 芦谷さんが……?」
わたしはまったく想像がつかず、心に浮かんだ言葉をそのまま返した。
子どもの仕事と聞いて、保育園や学童を思い浮かべる。芦谷さんが穏やかに赤ちゃんをあやすことも、小学生と外を元気に走り回ることも、まったくイメージができない。
「ええ。広島に住んでいたときにね。児童養護施設だけど」
突如飛び出した聞きなれない言葉に、反射的に眉をひそめた。