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第61話:「今日を、ちょっぴり特別な日にしたいあなたへ」

 休まらない身体を起こし、火曜日のカフェ勤務へ向かう。割りのいい引っ越し手伝いのバイトのおかげで、今週は無休のまま土曜日まで働きづめだ。さほど疲れていないと思ったのに、気持ちの気怠さは抜けない。

 おばあさんがさっそうと家をあとにする後ろ姿を思い出す。あの背中を押したのは紛れもなく亡くなった旦那さんで、わたしは何もできなかった。無力感が身体の隅々にまで行きわたり、ひとつひとつの動きを鈍らせていた。


 お店に着くと、すでにドアの鍵は開いている。

「遅かったじゃない」

 重たい金属ドアを押すと、いつもはわたしのあとに来る芦谷さんがカウンターの中に入ろうとエプロンを付けていた。

「おはようございます。今日はいつもより遅い電車で」

 始業時刻まであと5分と迫っていた。わたしは昨日、一昨日の引っ越しアルバイトの話をしながらエプロンをつけ、芦谷さんのすぐあとを追ってカウンターの中へ入った。〈2日で3万〉と聞いた芦谷さんが、「お金に目がくらんだのね」と言ってニヒルな笑みを浮かべる。わたしは素知らぬ顔で手を洗い、サラダの準備のためにレタスを千切った。

「ああ、いいわよ。それよりあなたはあっちやりなさい」

 芦谷さんはそう言って、クラフトコーラのシロップが入ったビンを指差した。土曜日に作って置いたシロップだ。スパイスを煮出し、熱湯消毒したビンに入れておく。半日以上は寝かせて、素材の風味がシロップにうつるのを待っていた。

 土曜日に作っておいたシロップは、ちょうど良い頃合いだろう。わたしはシロップ用の柄の長い金属スプーンを手にし、輪切りのレモンやシナモンスティックをかき分けて下に溜まるシロップを軽く混ぜだ。やっとの思いですくったシロップは、褐色に色づいていた。

 小さいカップにシロップと炭酸水を合わせ、一口含むと心地よい口当たりにしつこくない甘さが後を追う。

「いいんじゃないですかね」

 わたしは今日分のシロップができていたことに安堵しながら、明日以降のシロップの下準備に入る。スパイスが入る袋を開くと、先ほどを超える強い香りが鼻を抜けた。



 昼ご飯にはまだ早い時間帯、グレーのスーツを着こなすひとりの女性が店に入ってきた。

「いらっしゃいませ。お好きな席にお座りください。ただいまお水をお持ちしますね」

 わたしは女性が席を決めたのを見届けると、水を出した。そして「ご注文が決まりましたら、お声がけください」と彼女に一言だけ声をかけてその場を立ち去ろうとしたとき、女性が悩む間もなく口を開いた。

「サンドイッチ。あと、クラフトコーラお願いします」

 そのままトートバッグからノートパソコンを取り出して作業を始めた。慌ただしさがこちらにまで伝播し、「かしこまりました」と手短に言うとそそくさとカウンターの中に戻ってきた。

 一人前の食事を準備している間、彼女はパソコンのキーボードをリズムよく叩く。時折スマホの着信音が鳴っては、一言二言話し、そして電話を切る。

 忙しいもんだな、とのんきに思いながら、否応なしにキーボードの打音に注意は引かれる。まるで耳の鼓膜を叩かれているような気がした。


 芦谷さんが作るロコモコ丼の出来上がりを待ち、わたしはクラフトコーラを作る。氷を入れたグラスにシロップを2さじ取り、炭酸水を静かに注げば濃い茶色から薄い褐色のグラデーションがきれいに表れた。

「お待たせいたしました。ロコモコ丼とクラフトコーラになります」

 作業の邪魔になるまいとそっと食事を提供し、身を引こうとすると、目の前に座る彼女が言葉を発した。

「……『今日を、ちょっぴり特別な日にしたいあなたへ』って、お姉さんが考えたんでしょ」

 白いノートパソコンをぱたんと閉じると、彼女は置いたばかりのクラフトコーラに手を伸ばす。軽くすりつぶして香りを立たせたミントと、ほんの少ししんなりしたレモンの輪切りが彼女の指の隙間からのぞいていた。

「はい、そうですが」

「そうですよね。だってお姉さん、こういうの好きそうだもの」

 突然向けられた嘲笑するような視線に、身体全体がこわばる。距離感が異常に縮められている。それなのに「お客と店員」という関係性がわたしの動きを鈍らせる。

「あの、何をおっしゃりたいのか、さっぱり……」

 彼女は、「前はそんなこと書くような可愛い店じゃなかったから」とだけ言って、ふたたびストローに口を付けた。

「何度か、いらしてくださってたんですね。すみません、わりと務めたてで」

 昔からこの「Toute La Journée」を知っているような口ぶりの彼女に、わたしは歩み寄った。そのあと、カウンターの中にいる芦谷さんをちらりと見た。芦谷さんはわたしの意図を悟ったのか、目が合うとすぐに首を横に振った。目をそらして手を振り払う様子を見ると、芦谷さんはお客さんの彼女と付き合いがなさそうだ。

「ちょっとだけね。それで言うのもアレだけど、あんまり流行らないでほしいわ。良い作業場がバレちゃう」

 へらへらと笑う彼女は、どこか距離感がつかめない。無邪気なように見せかける口角がわざとらしく光る。

 わたしは愛想笑いを浮かべながら、持っていたトレイを胸の前で握りしめた。戻っていいのか、まだ話が続くのかも分からないでいると女性が表情を変えずに言った。

「なんかイライラするのよね」

 ぼそりと吐き出された言葉に、思わず動きがとまる。聞き間違いかと思い、わたしは笑顔を張り付けたまま彼女の方を向いた。彼女はすでにグラスの三分の二を飲み干していた。


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