「いいんですか? 旦那さんの形見みたいなものなんじゃないですか」
驚きのあまり言葉が勢いづく。
「物は物よ」
おばあさんは、その間も淡々と他の荷物を手にしては、先ほど組み立てた段ボールの中へ入れていく。迷いがなかった。言葉遊びで言っているわけではないことが明白だった。
「素敵です。旦那さんへの信頼も、物に必要以上に入れこまないところも」
昨日、引っ越しの話に納得したのも、清水さんが、旦那さんとの約束だと言ったからだ。彼女は「それなら仕方ない」と答えた。そこには、自分の夫への信頼がある。いろんなことを忘れていく中で、おばあさんはゆるぎない軸を持って歩いているように見えた。
「そんなたいしたことじゃないのよ。物にこだわっちゃうと、失くしたときに大事なものを失くした気になっちゃうでしょ。あれが嫌でね」
荷造りの手を止めないおばあさんとは対照的に、わたしの手は止まってばかりだった。早くはない。ただ、ゆっくりとでも荷物をまとめていくおばあさんは、わたしよりも荷造りを進めていた。
昼食を取り終えると、すぐに玄関のインターフォンが鳴った。「はーい」と言いながら、おばあさんは玄関へ向かう。すると、清水さんも大きなあぐらをほどいて立ち上がった。
「ケアマネだと思うわ」
玄関口に行くふたりを見送る。するとアンが、「さっさと食べちゃいましょう」と言って、目の前のちょっと贅沢なすき焼きお弁当に手を付けた。急ぐことないのに、と思いながらも、わたしも後に続く。
「じゃあ、わたしはお先に出るわね。お手伝いありがとう」
おばあさんは、みんなで食事をしていた居間に戻るやいなや、そう言って貴重品が入った小さなバッグを持って出て行った。入れ替わるように清水さんが入ってきて、「休憩してて! 1時間くらいでまた戻る」と残してふたたび部屋を出て行く。そして玄関でなにやら立ち話をしたかと思えば、ドアはぱたりと締まり、誰の声も聞こえなくなった。
「随分あっさりなばあさんですね」
「……すごいよね、いろいろ」
ふたりして、しばらく呆気にとられる。軽トラの音と、もう一台別の車の音が遠くなっていく。いよいよ本当に閑静な住宅街に戻ってしまい、家主の消えた赤の他人の家にいる居心地の悪さに気づき始める。
「普通、誰かいますよね。人んちですよ。こんなことあります?」
無防備にもほどがある、とアンは訝しみながら何も飾られていない部屋を眺めた。壁にかかっていた写真も賞状もない。部屋の空気すらも変わったように、寂しさを含んだ。
「そういえばね、清水さんのこと気づいてたんだ。おばあさん」
アンは上方を見上げていたところ、すぐにこちらを向いた。
「はい? それってどういう……」
「清水さんが『げんちゃん』じゃないってこと、気づいてたの」
ますます不可解な面持ちで、彼はこちらを睨んだ。何を言っているのかと言わんばかりの目をしていた。
「正確に言えば、清水さんを清水さんとは分かってなかったんだけど、『げんちゃん』ではないってことには気づいていたという感じで……」
込み入った話を丁寧に説明しようとしても、もごもごとしてしまうのは昔からの悪い癖だ。これでは伝わるものも伝わらない。
「じゃあ、なんで『げんちゃん』として話を聞き続けたんですか」
「旦那さんとの約束だったからみたい」
「旦那さんとの約束? あの金の話ですか?」
「いや、約束の内容は知らなかったと思う」
矢継ぎ早に問うアンに、めまいがする。
「……はい? それじゃあなぜ信じたのかさっぱり」
「うん……まあ、そうなんだけど」
アンは諦めて、箸を握り直し、食べかけのお弁当にふたたび手を付ける。
「旦那さんだったの。すべて」
すき焼きの肉を口の中に入れたまま、アンは眉間にしわを寄せて何かを訴える。
「旦那さんへの信用が、今回の引っ越しを実現させたの。清水さんもすごいんだけど、清水さんに頼んだ旦那さんの見通し力は……ただ者じゃない」
今回の自分の無力感に打ちひしがれながらわたしもお弁当をつつく。
「全然意味わかんないです」
「いや、わたしも十分には分かってないけどさ」
ふたりだけの居間で、わたしたちは妙な感覚を共有しながら近所のちょっぴり高級なお弁当を頬張る。
「妄信的」
「どうだろうね」
いただいたペットボトルのお茶に口をつけ、すぐさまふたを閉める。
「古風って言うかなんていうか」
アンは終始とげとげしかった。彼も何かを探しているようで、それが昨日のおばあさんの姿と重なった。
「もっと話を聞けばよかったな」
おばあさんへの後悔が口をついて出る。
「今はただのバイトですよ。ひ・や・と・い!」
わたしはアンに睨みを利かせ、あと少しとなったお弁当を急いで食べきる。アンのお弁当はいつの間にか空になっていた。
くだらない攻防戦を繰り広げていると、急にアンのスマホが鳴った。画面に表示された名前は、清水さんだ。アンはスマホを手にすると、すぐに電話に出た。
「はい、代家です。……はい、アンです。ええ。……はい、……そうですか。はい、……わかりました。では先に失礼します。……ええ、ではまたバーで。お待ちしています。ええ……では」
電話が切れる。アンは、スマホを先ほどの場所にスマホを置くと、お弁当のごみをまとめ始めた。
「帰りますよ。手続きが長引いているみたいで、清水さん遅くなるみたいです。もうおおかたの荷造りは済んでいるから、帰っていいよと」
アンは庭の小さな倉庫の中に家の鍵があることを聞いていた。それで鍵を締め、また元に戻しておけばいい。
わたしもお茶を一口含み、お弁当のごみをまとめる。小さなビニール袋にひとまとめにし、食べかけの清水さんのお弁当は冷蔵庫へしまってから家をあとにした。
帰り道はまだ明るかった。何かいいきっかけにと安直な考えで行った自分が恥ずかしい。割り切れない気持ちを抱えたまま、わたしはアンと駅を目指し、住民がひとり減った住宅地を歩いた。