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第59話:引っ越し手伝い⑤

 2日目、昨日と同じように電車に揺られ、大船の静かな住宅街へ向かう。昔からの家も多いこの辺りは、静かだ。そこに軽トラのエンジン音が聞こえ始める。アンとわたしが家の前に着いていくらもしないうちに、清水さんもやってきた。

「おう、今日もよろしくなあ!」

 朝から活気ある彼を見るわたしたちの目は、もう昨日までのものとは違った。わたしは気長におばあさんと関わり続けてきたことで彼に尊敬の念を抱き、アンはもう清水さんを同じ人間として見ていないような、そんな何とも言えない顔で彼を見ていた。

「今日はおねえちゃんも一緒に荷造りしてな。午後一で、ケアマネが来る。そしたら俺は、一緒にばあさんを施設に入れてくるから。それ以降は、時間までゆっくりやってもらって構わんから。俺もぼちぼちで帰ってくるし」

 今日の流れが清水さんから共有される。

「おばあさんは先に施設へ行くんですね」

「そうなんだ。実は今朝も行ってきた。たんすとかは一部運び込みなんだ」

 今日は細かなものと一緒に、おばあさんを施設に置いてくるという算段だった。わたしは午前中のうちに、新しいで必要なものを聞いて分けておくことを考え始めていた。昨日おばあさんが言っていたことを思い出しながら、必要そうなものがある居間と寝室に重きを置く。

「てか、俺らのこと覚えてますかね」

 アンがわたしを一瞥してから、清水さんに問いかけた。確かにドアを開けてまた引っ越しの問答からスタートでは、貴重な午前中が消えてしまう。

「昨日の今日だ。大丈夫だと思うけどな」

 清水さんも確信はなかった。それを見たアンの表情が怪しくなる。別に自分がおばあさんと交渉するわけでもなしに、アンは気怠い顔をする。清水さんはわっはっは、と大きく笑うと、「じゃあ行くか」と清水さんはわたしたちに声をかけ、家のインターフォンを押した。


「はーい」

「俺だよ、冨佐江ちゃん」

 清水さんが「冨佐江ちゃん」と呼んだことで、昨日の記憶がものすごい速度で掘り起こされる。

「あっ! 清水さん、あの……」

 そのとき、ギギッとドアが開き、おばあさんが顔を出した。おばあさんは、わたしを見るなり、にこりと微笑んだ。

「あら、げんちゃん。いらっしゃい」

 おばあさんは、清水さんの後ろに立つアンにも「いらっしゃい」と言った。アンは1日目と同じように会釈をして、「お邪魔します」とだけ言う。それを見て安心した清水さんは、「今日の引っ越しだけど、午後にケアマネの……」と話をしながら家の中に入っていく。アンとわたしも続いて玄関の敷居をまたぎ、靴を脱ぐ。

「……ええ、ええ、そうね。じゃあご飯を早く食べないとね」

 まだ朝の9時だというのに、もう昼食の話が出ている。

「お弁当を買って来てある。でも今日は違うぞ。和田屋のすき焼き弁当だ。冨佐江ちゃん好きだったよな!」

 そう言って、清水さんは高級そうな容器に入ったお弁当たちをひょいと掲げた。

「まあ。いいの? じゃあ冷蔵庫に入れておくわね。あとで出しましょう」

 お弁当を受け取ると、おばあさんはうきうきで台所へ消えた。

「振り出しには戻りませんでしたね。よかった」

 アンは、ふう、と息をついた。それも束の間、アンは清水さんに連れられ、今日もばたばたと家じゅうを行ったり来たりした。そのうちに荷物がまとまると、いっきに軽トラの荷台に運び入れる。わたしは、おばあさんと昨日の寝室の最後の荷造りをしていた。

「おばあさん、この段ボールで最後ですかね」

「そうね! よかったわ。この部屋が一番長丁場だと思ったんだけど。意外と早く終わるものねえ」

 作業の速さに感嘆しながら、ガムテープで段ボールを閉じる。そうして一緒に居間へ移動すると、もう半分ほどの荷造りが済んでいた。

「残りはここね。ここはもう捨ててもいいようなものばかりなの」

「何が入っているんですか」

「本当に大したことないものよ。普段使いのボールペンとか、人からもらったお土産の飾り物とか」

 段ボールを組み立てながら、物の必要度を伺う。

「ああ、でもこれは持っていこうかしら。お父さんが使ってたやつなの」

 そう言って手に取ったのは、動かなくなった腕時計だった。シルバーの淵に、大きな文字盤がついている。ゴールドの針は、もう動かない。

「電池がないんですか? 入れ替えたらまた使えるかもしれませんよ」

「どうなのかしらね。お父さんしか分からないの」

 腕時計を差し出されるがまま受け取った。黒皮のベルトは年季が入っている。ぱっと見た感じ、壊れている様子はない。この家にボタン電池はなさそうだ。あとで清水さんに相談してみようか。

「直せないか、あとで聞いてみます。ちょっとテーブルに置いていてもいいですか。どこかの荷物に混ざったら、見つけられなくなりそうで……」

「ええ、どうぞ」

 おばあさんは思いのほか淡泊だった。

 和風のローテーブルの上には、マナーモードを解除したわたしのスマホが置かれている。外のふたりからいつ連絡が来てもいいように、音量を引き上げていた。わたしはそのスマホの横にぴたりと付けるように、腕時計を置く。スマホなら、忘れて変えることはないと思ったのだ。

「でも直らなくてもいいのよ。どうせ今更身につけるわけでもないし」

 わたしが慎重に腕時計を扱っていると、おばあさんがそう言い始めた。


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