「あの子?」
「ほら、あの、横に大きい」
そのフレーズで思い出される人は、ひとりしかいなかった。
「しみ……『げんちゃん』?」
恐る恐る答える。アンは長身で細身、わたしなら「あの子」とは言わない。どう思案しても、清水さん以外にあてはまる人がいなかった。
「げんちゃんはもう少し痩せてていい男だったわ」
おばあさんは複雑な眼差しで、アンと庭を歩く清水さんを見ていた。
「気づいていたんですか」と聞く唇に、自然と力が入る。おばあさんは動きを止めず、テーブルに出した小物をまた丁寧に片づけていた。
「ええ。だって、げんちゃんは『幸雄さん』だなんて呼ばないもの」
当たり前のようにそう言って、おばあさんはまたひとつ、小物の雑貨を静かに入れ物に戻した。たしかに、「げんちゃん」のふりをするなら、「冨佐江ちゃん」「幸雄さん」では違和感がある。清水さんにとっては伯父さんだからか、「幸雄さん」と言ってしまったのかもしれないと思いながら、わたしは彼女に「いつから気づいていたんですか」と聞いた。
しかし、「いつから」と聞いたわたしに、彼女はまた頭を悩ませた。いつから気づいていたのか、それは記憶の海に流れていってしまったようだ。それでも何か、ぼんやりと残るものがあるのかもしれない。そう思ったとき、わたしは実習生のころの老年期実習を思い出した。
指導担当の看護師が、認知症が進んで自分で食事をとることもままならなくなった患者に優しく声をかける。4人の大部屋で、程度の差はあれど全員認知症を患っていた。歳を重ねれば、いくつも病気を抱える。それぞれの治療のために集められたこの部屋で、もう口を開けることがやっとの人から、何かを永遠と話し続ける人までが揃っていた。
向かいのベッドの患者は、聞き取れない言葉で何かに怒っている。それを受け持ちの看護師が、「うるさいのでね、XXさん! 静かにね」と冷たく言い放って部屋を出る。実習生ながらに寄り添うとはどういうことなのかを考えていると、指導担当の看護師が言った。
「記憶はなくなっちゃうけど、感情は残るのよね」
「だから、あれは反面教師にしてほしいかな」と言って苦笑いした。
そしてすっと向かいのベッドの怒り続ける患者のベッドサイドへ行く。むにゃむにゃ、うにゃうにゃ、どの擬態語も近いようで遠い。何を言っているのかも聞き取れないのに、指導担当の看護師は、うん、うん、と頷いた。数分ほどそんなことをしていると、次第に患者の勢いは落ち着いていく。まだ不服そうな顔を見せはするものの、自分で布団をかけ直して横になった。
最後まで、本当に何を言っていたのかは分からなかった。でもそれは指導担当の看護師も同じだろう。きっとさっき病室を出て行った看護師もそうだ。わたしは、この指導担当の看護師が言った、「感情は残る」という言葉に囚われている。
今、目の前で片づけをしているおばあさんは、何度も清水さんを忘れてきた。しかし、清水さんが与えてきた安心感をずっと覚えていたのかもしれない。
「あの男性は、清水さん。下の名前は“剛”です」
「つよし? ああ! だからげんちゃんに似てたのね」
おばあさんは本当の清水さんを思い出す。随分おじさんになったのね、などと言いながらふたたび考え込んだ。おばあさんの記憶の中の清水さんは、今も子ども、あるいは若いころの彼なのかもしれない。
「どうして信じたんですか。清水さんのこと」
それは、“今日の清水さん”だ。彼女が今日、信ずるに値すると判断した清水さんについてだった。
自分に置き換えて考えたとき、いくら見知った人だとしても、家を引っ越すことまで同意できるだろうか。さすがに言うことを聞かないような気がしてならない。興味本位で出た質問だった。すると、おばあさんは迷いなく答えた。
「あの人との約束だって言ってたじゃない? それなら仕方ないわ」
片づけ終わった入れ物を持ち、さきほどまで置いていた場所へ戻す。そしてまた隣の入れ物に手を伸ばした。彼女はまた何かを探している。何を探しているかも分からないまま。
1日目の作業が終わり、清水さんとアンが部屋に入っていた。
「帰りますよ。続きはまた明日」
アンがわたしに声をかけながら、置いていたバッグを手に取った。
「じゃあ、わたしもこれで。また明日お邪魔します」
おばあさんに挨拶をして、立ち上がる。おばあさんは、新しく手にした入れ物を再び仕舞い、「またいらっしゃいね」と微笑んだ。
帰りの道で、アンに今日の労をねぎらう。
「ありがとうございます。でも、思ったより物が少ないです。あと、知ってました? 清水さん、結構荷造り終わらせてましたよ」
「ん?どういうこと?」
一度来ただけでは意味が汲めなかった。思わす聞き返すと、アンは駅の改札にスマホをかざしながら言った。
「普段使ってない部屋のふすまの中は、もう荷造り済みの段ボールです。明日はキッチンと、寝室と居間のまだ入れてなかった部分を荷造りすればOKってこと」
清水さんは、これまで何度もおばあさんに説明し、納得させ、荷造りをしていた。そしてまたおばあさんが忘れてしまうと、また一から説明し納得してもらうのを繰り返した。
「ピーン、ポーン」と高らかに響く誘導用電子チャイムの音に交じって、「いや~…、俺にはできない」とアンがこぼした。