「はい、どうぞ。ほら、げんちゃん、ふたりに回して」
おばあさんは、お茶を入れた湯呑を4つと急須をお盆に乗せて居間に戻ってくると、テーブルに置き、一番近くにいた清水さんにそう声をかけた。口々にお礼を言い、おばあさんが座るのを待って、お茶をいただく。
「それでなんだが、冨佐江ちゃん。昨日の話覚えてるか? ここを出て、施設に入る話だ」
清水さんは、「げんちゃん」になり切って話をする。心なし、声色が低い。
「え? 聞いてないわ」
おばあさんは初耳のような顔をして、また新鮮な返事を返す。
「何かあってからでは困るから、そろそろ一人暮らしを終えないかって話なんだ」
困った顔が何度か揺らぐ。それから彼女は「まだ大丈夫よ。それにこの家はどうするの?」と、しきりに繰り返すのだった。その度に、清水さんは、おばあさんが認知症を患っていること、明日から入れる施設が見つかったこと、そしてこの家は売りに出すことを伝える。しかし、やはり一筋縄ではいかない。
「この家でいいわよ。ここで暮らしたいの。それに百合子もいずれ……」
「百合子ちゃんは、外国からしばらく戻ってこれないって。だから俺が頼まれたんだ」
話の途中、おばあさんが「外国?」と小さく聞き返した。清水さんが「仕事でな」と言うと、「ああ、そう……」とまた不安そうな顔をした。新しいことを一度に聞かされて、混乱しているのは一目瞭然だった。
「幸雄さんとの思い出もあるだろうが、今年で冨佐江ちゃんも80だ。そろそろ」
「でも……」
でも清水さんにとっても、それは同じだった。背中を丸め、頭を無造作に掻く。大柄な身体が一回り小さく見えた。
「この話はもう何度もしてきた。でも冨佐江ちゃん、覚えてないだろ? そういうことが増えてきて……何かあってからでは、幸雄さんに顔向けできない」
それを聞いて、おばあさんは立ち止まり、深く考え込んだ。そして「分かったわ。それがあの人との約束なのね」とだけ言った。
それからの作業は恐ろしくスムーズに進んだ。もとは何度も話し合ってきたことだ。捨てる家具や持っていくもの、譲る先などはおおかた話が付いていた。それを今回初めて話すかのようにおばあさんは清水さんへ伝え、清水さんもまた、初めて聞く顔をしながらメモを取った。
「明日まではここに住むから、寝室や風呂場などは後回しにして。使わない奥の部屋からいきましょう」
いつしかおばあさんが指揮を執るようになり、清水さんとアンは大きな家具を軽トラの荷台へ運ぶ。午前に何度か清水さん宅の倉庫へおばあさんの荷物を運ぶ。そして家の中を整理していると、すぐに昼になった。清水さんが買ってきたお弁当を4人で和気あいあいと食し、また作業うつる。2日もあれば、確かにある程度の荷物はかたが付きそうだ。
今日の作業もあと1時間と迫ったころ、わたしはまだ手付かずだった寝室で、おばあさんといた。探し物があるという。手前の引き出しから、奥のふすまの向こうまで、ゆくりと、くまなく探す。
「何をお探しですか」
「うーんと……」
綺麗に整理されていたかごを取り出しては、ひとつひとつ開けて行く。しかし、この調子で何を探しているかが分からない。
「どんな感じですか。色とか、形とか」
「えっとねえ、どうだったかなあ。でもこの辺だと思うのよね」
もう20分ほど、この繰り返しだ。清水さんがわたしを当てがったのも合点がいった。
「一緒にさがしますね」
「ごめんなさいね、ありがとう」
そう言って、おばあさんはまた腰をかがめて物を探る。あれでもない、これでもない、かごや引き出しをひっくり返す。
わたしは先ほどひっくり返したペン立てに、一本ずつボールペンを戻していた。先ほどまで整理整頓されていた部屋が、煩雑になりかけている。それでも、こうしてペンが一か所にまとめてしまわれているところを見ると、このおばあさんの普段の様子が手に取るように分かる。
「お引越し、驚きましたよね」
けして改まらず、世間話をするかのように話しかけた。すると、おばあさんは、手を止めてわたしを見た。丸く見開いた瞳が不思議そうにこちらを見つめている。
「そうなの。だって、急すぎるわ。明日だなんて」
そうだ。彼女にとっては、長く住んだ家からの引っ越しを今言い渡されたようなものなのだ。
「でもそんな大事なことも忘れちゃうのねえ」
しわのひとつひとつを悲しみが支配している。昔のことは覚えていても、新しいことを覚えるのはどんどん難しくなっている。進行が進めば、数日前のことも覚えていられないだろう。物をしまった場所どころか、食事を取ったか、お風呂に入ったか、ついさっきのことまで覚えていることが厳しくなる。娘さんのことは覚えている。旦那さんや、旦那さんの兄弟だった『げんちゃん』のことも忘れてはいない。それでも確実にどこか周囲とかみ合わない自分を感じているはずだ。
「仕方ないことです。みんな年は取りますから。わたしも、年を取れば今日のことを忘れてしまうかも」
さっぱりとした表情で、言葉を投げる。それは誰にとっても起こりうる、避けようのないことだ。
「あら、それは悲しいわね」
彼女の張っていた頬が緩んだ。誰しも、ずっとすべてを覚えておくことはできない。あなただけではないと、伝えるつもりで言った。
「……じゃあ、あの子にはこんな思いをさせているのねえ」
ふと、おばあさんが外の方を見てつぶやいた。庭には、停めた軽トラの荷台に、中型の家具をふたりで運ぶ清水さんとアンの姿が見えた。