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第56話: 引っ越し手伝い②

「でしたら、恰幅の良い男性はいませんか? ゲラ笑いで、お酒に強い」

 アンがおばあさんに聞く。おばあさんは少し前鏡だった背中を起こし、背の高い彼を見上げた。

「さあ、どうでしょう。せっかく来ていただいたのに申し訳ありませんが、我が家は引っ越しの予定がありませんの。では失礼しますね」

 一瞬見えた島も消える。そう言って、丁寧にドアは閉められた。パタンと乾いた音が響く。ふたたびふたりだけになったところで、アンは「どうしましょうね」と少し面倒そうな困り顔を見せた。

「清水さん、今日来るって言ってたよね。遅れてるのかな」

「電話してみますか。中にはいないみたいだし」

 渡されていたメモを見返す。清水さんの番号を見つけると、アンが早々に自分のスマホをタップし耳元にあてた。数秒ほど経って、電話がつながる。

「……あ、清水さん? 今日引っ越しの手伝いを頼まれていた代家なんですけど。……ああ、そうです、アンです。……ええ。てか今、どこいます? もう着いてんですけど」

 苛立ちが滲む語尾に、自然と口角を上げ、愛想笑いを浮かべていた。ふたりしかいないこの空間のどこにそんな気遣いする必要があるのか。

「はい、……はい、はい。……わかりました。じゃあ外で待ってますので。はい……はい、では」

 電話が終わると、アンは小さなため息をついた。

「清水さん、なんて?」

「もう少しで着くそうです。ちょっと遅れてるって」

 連絡がついたことに安堵しながら、不満が滲むアンと世間話をしながら待った。

 閑静な住宅街にある道は、車がすれ違うのがやっとだ。そこに1台の軽トラが走る。運転席には座席ひとつには収まらない、清水さんが乗っていた。

「悪いなあ。遅くなった!」

 軽トラを敷地の隅に停め、悪気なく現れた彼に簡単に挨拶をする。先払いと言って、清水さんは3万が入った封筒をわたしたちそれぞれに手渡した。

「やっぱりちょっと多いんじゃないですか」

 申し訳なくなって返そうとすると、清水さんは手で払う仕草をした。

「いいや、もらっといて。その代わり明日まで頼むで」

 そう言って、先ほどわたしたちが門前払いされた玄関を目指す。

「冨佐江ちゃーん! いるー?」

 インターフォンも鳴らさず、清水さんは玄関口から大きな声を張り上げた。それをわたしの隣で聞いていたアンが、「なんでこうもみんな、うるさいんですかね……」と、こちらをちらりと見ながら小声でつぶやく。

 ほどなくして玄関口に出てきたのは、先ほどと同じおばあさんだ。

「あら、げんちゃんか。それにしてはちょっと太いか」

「失礼やな! この前も同じこと言っとったで」

 がはは、と笑う大男は、「それより冨佐江ちゃん」と言って玄関のドアに手をかけた。


「幸雄さんとの約束を守りに来たんやけど」


 にやりと笑う清水さん、他の三人はぽかんとしてその場に立っていた。



 清水さんの後ろにつき、アンとわたしは居間に通される。おばあさんは「お茶を出す」と言って台所に消えた。

「あの……幸雄さんとの約束って何ですか」

 わたしは清水さんに先ほどのやり取りについて聞いた。

「幸雄さんが死んだとき、金を預かった。冨佐江さんがひとりで逝かないように、引き取る家に全額やると。それがまあまあな額でな。黙って懐に入れられるような悪さもできない。あの人はそれを分かってて俺に預けたんだ。施設に入れる手付金にしてくれてもいいなんて言って」

 施設入居については、すでについているケアマネ経由で何度も話はしたらしい。しかし、数日経ってしまえばこのありさま、おばあさんは忘れてしまう。

「清水さんは、冨佐江さんの子どもではないんですね」

 幸雄さん夫婦の話に妙な距離感を感じた。冨佐江さんも、自分の子のようには振る舞ってはいない。近しいのにどこかお客さんのように、今だってお茶を入れようと準備してくれている。

「ああ、そうだ。冨佐江さんは、俺のことを『源治』、いわゆる『俺の父親』だと思っとる。認知症が進んでるからな。もう俺が剛だってことは分からん」

 清水さんは、自身の父・源治のふりをしておばあさんと会っていた。ふたりの年齢差は40歳ほどあるのに、「げんちゃん」「冨佐江ちゃん」と呼び合う理由はそこにあった。

 清水さんは甥っ子にあたる。おばあさんは、清水さんのお父さんの兄弟のお嫁さんだ。海外に住む実子の代わりに、同県に住む清水さんが現在は面倒を見ていた。

「もう6年くらいか。認知症と言われて長いんだ」

「それでも一人暮らしを?」

「ああ、家に居たいと言って聞かなかったからな。でも最近ではそんなことも忘れている。良い機会だ。身内の話で、今のうちに施設に入れようって話になったんだ」

 火事でも起こされたらかなわんからな、と清水さんは言った。畳の上に置かれた座布団の上で、あぐらをかく。

「なんだか悲しいですね。家にいたいって言ってたのに」

 部屋に飾られていた賞状や写真を眺めながら、アンがぼそりとつぶやいた。

「今はこれくらいで済んでるが、俺も仕事がある。四六時中、世話が必要になったら、誰も見る人がいないんだ」

 仕方ないことだというのは、誰もが感じるところだった。アンもそういう意味でいったわけではなかったが、この部屋を今から片づけるなんて、悪いことをしているような気持ちにならざるを得なかった。


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