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第55話: 引っ越し手伝い①

 7月2日。わたしはアンと普段乗らない電車の中にいた。車窓からは少し遠くに家々が見える。田園風景とは行かないまでも、田舎の気配がすぐそこにあった。

「初めていくかも、大船」

「まあ、観光地ではないですからね」

 アンは、時折大きく揺れる電車内で、いつもの調子で話をした。わたしはというもの、今日の服装や持ち物に困り、結局実習に行くような白いブラウスにライトグレーのパンツスタイルという卒ない恰好で電車に駆け込んだ。バッグは訪問バッグを彷彿とさせる大きさの合皮のバッグだ。A4がすんなり入るバッグに、仕事でもないのにバインダーとコピー用紙を数枚挟んできた。あとは、ビニール袋や手指消毒用アルコール、スリッパなどが財布とともに雑多に入れられている。認知症のおばあさんが一人暮らしする家だ。どんな家か分からない。

「次の駅を降りて、北2の出口から出て左にまっすぐだそうです。とりあえずは道なり」

 スマホを片手に、アンが言う。地図アプリが開かれていて、見ると先日のもらったメモに記載されていた住所が入力されているのが見えた。


 アンの道案内のもと、わたしたちはある民家の前にたどり着く。昔ながらのこぢんまりした一軒家だ。古びたブロック塀には、「木下 幸雄」と書かれた表札が出ていた。

9時には少し早かった。

「少し待ってますか」

「そうだね」

 カーテンは開いているものの、外からでは家の中の様子までは分からない。人の気配はしなかった。

「瀬野さんも、今週休みなしになっちゃいましたね。なんか、すみません」

 自分のスマホに視線を落としたまま、アンは言った。さほど悪いと思っていない言い方だ。時間を持て余している。

「いいよ。たまには。どうせ仕事と家の往復だし」

 目の前の小道に野良猫が通りかかった。こちらを見て一度立ち止まり、またすぐに歩き出して民家の垣根の奥に消えていった。

「根に持ってる」

「もってないよ」

 ガサゴソと大きく揺れた垣根の葉は、また動かなくなった。緑だけが陰鬱とその先を通せんぼしてそこにいた。

「瀬野さんはどうして引き受けたんですか。今日だって看護師を安く使われてる感じじゃないですか」

 香月さんは、わたしが看護師であることをすぐお客さんに言いふらす。看護師なんて、その辺の人を何人か捕まえたら1人くらいは同業を見つけられるんじゃないかと思うほど、実際はとても母数の多い仕事だ。何も珍しくない。ただ、続ける人が少ないだけで。

「安くって言うけど、今の訪問看護の時給よりいいからね。侮れない」

 そうきっぱりと言ったわたしに、アンは口元を緩め、どこか気の毒そうにこちらを見た。夜勤でもなく、短時間でそれほど多くはもらえない。医療行為もない。話し相手程度であれば、とんでもなく割がいいアルバイトだった。しかし何よりも、おばあさんが気になって仕方がなかった。

「それに、おばあさんはもうその家には戻ってこないのかなって」

 アンは、声にならない、ただ漏れただけのような声を返した。先ほどまでのふざけ合う空気はどこへやら、空気が変わったことを感じる。

 先日手伝いの話を聞いたとき、わたしの中には不思議な感情が心の奥底に渦巻いていた。家を出るころ、人ひとり分の生活の痕跡がなくなっているのか、と思ったのだ。台所には食器ひとつなく、たんすやテーブルも家中から消え、ただ広く何もなくなった空間の床に、よく分からないものの跡だけが残る。椅子なのか、テーブルなのか、はたまた何か他の家具なのか、わたしにはそこにあったものを想像するしか術がなくなっている、そんな場面が想起された。

 一人暮らしだったということは、もうこの家自体に誰もいなくなってしまうのかもしれない。人間か消えてしまうのだ。そこに長く生活していた雰囲気だけが、何かを物語り続ける異質な空間のできあがりだ。わたしにとっては、幽霊やお化けと比にならないほどそれが不気味で怖かった。

「今日、結構大仕事だよね。頑張ろう」

 肩にかけたバッグからスマホを取り出す。時刻は9時に近づいていた。わたしは横に分が悪そうな顔をして立つアンに声をかけ、家の敷地に入る。数個の石畳を踏み、玄関までたどり着くと、右手にあるインターフォンのボタンを押した。

「おはようございます! 清水さんに言われてお手伝いに来た、代家と瀬野ですー!」

 人の家のインターフォンを鳴らすのは慣れていた。わたしは躊躇なく玄関でドアが開くのを待っていた。

「ちょっと……朝からすごい声量。訪問販売と間違われないですか」

「ああ、ごめん」

 アンは煙たい顔をして、笑っている。


 そのまま玄関の外に立って待っていると、徐々に人の気配が近づいてくる。内鍵を開ける音がして、ゆっくりとドアがひらく。そこには細身で白髪まじりのおばあさんが立っていた。

「どちら様ですか」

「引っ越しのお手伝いに来た代家と瀬野です。清水さん頼まれまして」

 わたしは先ほどと同じように名乗った。代家というときに、アンへ指先を揃えた手を向け示す。

「引っ越し? わたしは引っ越しのようはありませんよ。それに清水なんて親族はいません。亡くなったお父さんは木下だし、わたしも旧姓は宮本ですから」

 そう言って、おばあさんは怪しむようにわたしたちを眺めた。


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