目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報
第54話:香月が連れてきたもの

「ここでって」

「だって、病院でだめなら、あとどこがあるんですか? 瀬野さん、どうせ職場と家の往復でしょ」

 言い返す言葉もない。でも、たいていの大人はそうではないのか。

 アンは、コンロにかけた鍋の水が沸騰するのを待つ間に、根菜を乱切りに切る。

「俺、そういうことは、どーでもよくなることが大事だと思ってて」

 根菜を転がしながら、気持ちのいいほど軽快な包丁の音が聞こえる。まな板にリズムよく当たる刃は、わたしに質問をさせなかった。


 ドアにつけられているバンブーチャイムが急に聞こえた。ドアが開いた合図だ。振り向くと、香月さんがドアを開けている。あとに続いて入ってきたのは、初めて見る大柄の男性だった。

「「いらっしゃいませ」」

 ふたりの声が重なる。アンにとっても初めて見る人のようだ。アンが、香月さんに男性の紹介を求めるような目をした。

「お疲れさま。ふたりともそろっててちょうどよかったよ。こちら清水さん」

 清水さんは会釈をしてからカウンター席に腰かけた。香月さんも隣の席に続く。それぞれにあいさつをしたアンとわたしは、清水さんに飲み物を聞きながら、香月さんの次の言葉を待っていた。アンはオーダーが入ったマティーニをふたつ準備し始める。わたしはできたばかりのお通しを小皿に盛り分け、カウンターに置いた。

「日曜日と月曜日、ふたりに頼みがあるんだけど。いいかな?」

 香月さんがわたしから箸を受け取り、隣に座る清水さんに手渡した。「どんな頼みですか」とアンが聞くと、清水さんが口を開いた。

「引っ越し、……というか、ほぼ家の片づけ手伝いなんだけど。にいちゃんと、そこのおねえちゃんにも来てほしいんだ」

 肉体労働にアンが早速表情を曇らせる。

「どうですかね。俺も瀬野さんも役に立たないと思いますけど」

 飲み物を提供しながら、アンはやんわりと断った。わたしが返事もせず横でおどおどして立っていると、清水さんは右手の指を3本立てた。

「待て待て、9-16時、昼食付で日当1.5万。2日で3万だ。急な話で頼める人がいない」

 話を聞くと、認知症のおばあさんがひとりで住んでいた家を片づける仕事だった。近く、施設に入ることが決まったらしい。

「特にそこのおねえちゃん、アンタは看護師さんなんだろ? 相手してくれねえかな」

 そう言って、清水さんはマティーニのグラスに口を付けた。あんなきついお酒を一息にグラスの1/3ほど流し込む。恰幅のいい人はお酒も強いのだろうか。わたしはそんなことを思いつつ、何か話したであろう香月さんに目をやる。

「いや、わたしは……」

「頼むよ、瀬野ちゃん。アンも」

 香月さんの懇願に、アンが清水さんの方を向く。「1日2万なら考えます」と言ってにっこりと微笑んだ。こんなところで値段を上げてくる彼の狡猾さに驚くが、一方で清水さんはアンのそれを上回るようにニカッと笑って歯を見せた。

「いいさ。1日2万、2日で4万だ。乗ったな?」

「ええ、いいですよ。荷物はどんなものが多いんですか。先に言っておきますが、引っ越しのバイトはしたことがないので、素人ですからね」

「その辺は大丈夫だ。大きいのは俺が、それか一緒に運んでもらうくらいだ。あの家は、最後はばあさんだけで住んでたもんだから、細かいのが多くて。それで人手がいる」

 わたしはふたりの話の中で、ひとつ気になることがあった。

「……ごみ屋敷ではないですよね?」

 今の訪問看護の仕事に就いてから、急に人の家が気になる。認知症と言っていたことも引っかかった。家庭的だった人が、急に料理をしなくなり、片づけもできなくなってしまうことはよくある。

「ああ。大丈夫だ。ただ、物が多い。切手とか、コインとか、あとよく分からんちりめん細工の置物とか、とにかくたくさん! おねえちゃんはばあさんの相手をしながら……まあ、気持ち半分にやってもらえればいい。俺とにいちゃんで一気にやるさ」

 勢いの良い清水さんに流されるように、アンはすっかり手伝いに乗り気だ。

「いや、ちょっと考えさせて。貴重な休みだし。それに、後輩に出世を先越されて傷心でもあるんだから」

 開き直って、先ほどまでセンシティブだったはずの話題を自ら持ちだす。アンは悪い笑みを見せながら、動く。

「何その話。聞いてない」

「いいです、香月さんは」

 すると、アンはカウンター席に座るふたりに気づかれない声で、わたしに耳打ちした。

「(ちょうどいいですよ。解決の糸口になるかも)」

 確かに実質6時間だけの労働を2日で3万円だ。わたしにとっても良いアルバイトであることは間違いない。

「どんな糸口よ」

「それは行ってみないと」

 調子のいいことだ。アンはそう言って、もうなくなりかけていた清水さんのグラスを見て、ひとつトーンを落とし、「何かお飲みになりますか」と彼に聞く。

 いつの間にか、香月さんの飲み友達の話に変わっていた。清水さんは時折声を張り上げてどっと笑う。清水さんは1時間半ほど香月さんと馬鹿笑いしたあと、帰って言った。

 渡されたメモには、「7/2 9時 神奈川県鎌倉市大船……」と当日の住所が書いてあった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?