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第53話:深部を探る

 体調を崩し、受診したクリニックでの採血の針。今でもはっきり覚えている。風邪でぼんやりとした頭でも、針先を見る癖は抜けなくて、「あーあ、針先で探りすぎだよ」などと思っていたら、途端に気分が悪くなった。迷走神経反射だ。身体が大きく揺れて、吐気がして、自分がどこにいるのかも分からなくなるほど足元がぐらついた。

 仕事で針が刺せなくなったのは、それからだ。「バリバリ」という擬音語が似合う、大学病院の救急外来。新卒からずっとやってきた職場で、針が刺せなくなったことが何を意味するかは明白だった。天地も分からない中で睨みつけた針が、まだわたしに刺さっている。

「すみません、ちょっと別の言い方をすべきでした」

「いいの。わたしも結局同じように思ってたし」

 事情を打ち明けるのは勇気がいる。受け入れてもらえなかったらどうしよう、とは思わない。そこまでしおらしくはない。これからは配慮してよね、と相手に求めるような太々しさが気になるのだ。

 アンは、珍しく手を止めて言葉を探していた。数秒の間のあと、彼はいつになく重たい口を開いた。

「……母親みたいでちょっとイラつきました」

 飛び出した言葉に、わたしは思わず聞き返した。

「あ、えっと……お母さん?」

「はい。結論が分かっているのに、ぐちぐち話し続ける女が苦手で。いらいらしちゃうんです。自分の母親がそうだったから。分かり切ったことを、こう、なんていうか……」

「“ずっと話してる”」

「そう。そんな様子が本当に“女”って感じで、俺は無理で」

 申し訳なさそうに話しをする彼のあまりにも素直な物言いに笑いがこみあげる。

「“無理で”、かあ」

 心当たりはある。むしろそれはよくある話し方だった。女性特有とは言わないが、友人を見ると確かに女同士の会話に多かった。「共感」にある程度の価値を見出している人が多いからかもしれない。

「瀬野さんだって本当は理解してるでしょ? 『後輩と自分を比べて落ち込んでる』って言えばいい。それなのに、遠回りして昔の転職の話してみたり」

 急にまたアンの声色が戻る。持ち返したいつも通りの語尾が、先ほどは本当に申し訳なく感じていたことを告げる。

「感情って、同時に何種類も湧くことがあると思うんだよね。誰かに話しているうちに、やっぱりこうだったな、意外とああだったな、なんて思うことも多いじゃない?」

 ささやかな抵抗だった。アンは冷蔵庫を開け、次の食材を探している。

「いや、わかりますよ。でも、見ないふりしてるじゃないですか。『そうじゃないって言ってほしい』が透けて見える」

 彼が冷蔵庫を閉め、横に出ていた段ボールの中をのぞく。じゃがいもが残りわずかだ。彼はじゃがいもをすべて取り出し、ざるに入れて洗い始めた。

 わたしは、ああ、とだけ言って苦い笑みを浮かべた。瞬時に誤魔化しに走る自分に、ふたたび残念な気持ちが生じる。


「アンのお母さんは、どんな話をよくしてたの」

 これも自衛だろう。わたしは彼に話を振った。

「若いときは男の話。今は、ほとんどお金の話です。正直に『お金くれ』って言えばいいのに、『トマトが高くて買えない』とか『あの人は旅行に行く余裕があっていいな』とか」

 またしても話は続かなかった。アンのお母さんはまだ40代だ。それにも関わらず、聞かれる会話は少し年齢が上だ。デイサービスにいたトキさんの方が、随分と若々しい。

「それって単純にアンと世間話したいだけなんじゃ」

「どうですかね。それでもらうものをもらったら、また機嫌よくなって。なんて途端にしなくなりますよ」

 アンのお母さんは思いのほか現金な人だった。フォローのしようもない。

 アンはもともと家庭が複雑だった。母子家庭で育てられたと話していたが、今はアンが別居しているお母さんの生活費まで出しているのだろうか。お金と言っても毎月渡しているものなのか、プラスでねだられているのかでは話もだいぶ変わる。わたしが「それって」と質問しようとしたとき、同時にアンもこちらを向いていた。

「で、瀬野さんはどうしたいんですか。これから」

 油断している場合ではなかった。彼はこうして、いつもわたしに大きくて重要な問いを投げかけてくる。

「どうしたいって……そりゃあ、また針が刺せるようにはなりたいけど。でも……」

 いつになるか分からない。ついこの間だって、クリニックで眞鍋先生の腕を借りたばかりだ。針を握り、あとは刺すだけ、となったとき、また動くことができず、刺せないことを再認識しただけだった。

「大学病院を辞めてからも、針に触る機会はあるんですか」

「うん、今のクリニックでもできるよ。でもダメだった。針には触れるけど」

「じゃあ、刺せないのは本当にメンタル的な部分でと」

「……そうだね」

 考えてみれば、彼がデリカシーを持っていたことは出会ってから一度もなかった。気を遣うということを知らず、ずけずけと人の心に入り込む。ふつう言わないよ、と思うことを言い、わたしの想像をはるかに超えることをやろうとする。

「難しいんですね」

 わたしが、「そう。だから……」と言いかけたとき、アンがわたしの言葉を遮った。

「じゃあ、の解決の糸口を探りましょう。この『Toute La Journée』で」

 アンはそう言って、水を張った小鍋に火をつける。ガスコンロから点火の重たい音が聞こえた。


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