訪問着のスクラブを脱ぎ、わたしはバーへの道を急いだ。いつもより出るのが遅くなってしまった。私物のトートバッグを肩にかけ、小走りで暗くなり始めた道を行く。
店の窓を見ると、電気がついていた。半地下になっている店内をよく見ることはできないが、道行く人の足元あたりの高さの窓から明かりが漏れていた。螺旋階段を降り、バーのドアを開ける。
「お疲れさまです。珍しいですね、ぎりぎり出勤なんて」
アンは、すでにお店の開店準備を始めていた。「大丈夫ですよ、そんな急がなくても」と言いながら、手元でピクルスを切る。わたしは急いで荷物を置き、エプロンを身に付けた。開店まで時間が迫っていた。時間ぴったりに入るお客さんは少ないが、予約制でもないので流れが読めない。来るかも分からない客を思い、そわそわと準備する手を動かした。
「今日ね、利用者さんの受診の付き添いで、前に勤めていた大学病院に行ったの。そこで会っちゃった」
「誰に」
「救急のときの後輩」
へえ、と眉を上げ、アンはこちらを見た。まな板の上で輪切りになったピクルスを集めて、密閉容器に入れる。最近出始めたピクルスのソテーは簡単なのにおいしい。フライパンにちょっぴり大目に垂らしたオリーブオイルで炒め、塩コショウをきつめに振る。誰が作ってもおいしくできる。ここ2週間ほどは、わたしがその調理を引き受けており、今夜もわたしが作る予定になっていた。
「よかったじゃないですか」
「うん、まあ」
勝手に言葉が濁るのを感じた。そうだ、よかったのだ。懐かしむべきことだった。いろんな色が混じって汚くなった絵の具のような自分に失望する。
わたしは、水切りかごの中に置かれていたボウルを手に取った。乾ききらない部分を布巾で拭き上げ、棚に戻す。
「……『会っちゃった』ってことは、会いたくなかったんですね」
「うーん……どうだろうね。分かんない」
アンの言葉に、心が立ち止まる。
いつもの開店準備はあと少しで終わる。壁に掛けられた時計の秒針が、一際大きな音を立てる。カチカチと正確に時を刻む音は、いつからこんなに耳障りだっただろう。
「なんかあったんですか」
「別に。何もない。だって久しぶりに会ったんだもの。わたしは精神科の外来を受診する利用者さんの付き添いで。向こうは出世して、若くして役職持ちになってた」
仕事を好きだと言った彼女は、昔からそうだった。忙しない職場でギスギスした雰囲気にも|気圧(けお)されず、ただ粛々と目の前のやるべきことに向き合っていた。
「出世なんて考えもしなかったけど、きらきらしてる彼女を見ると、『いいなあ』とは思うの」
テキパキと動く救急外来での仕事は好きだった方だ。きっと人より仕事に対するやる気もあった。でも、それだけだ。そのうちに針が使えなくなり、大学病院にはいられなくなった。
「なんだ、単に嫉妬ですか」
「はい?」
「瀬野さんは、そういうの喜べる側だと思ってました」
アンは何でもないことのようにさらりとこんなことを言う。きっと失言とも思っていない。「そうだね」とだけ言って、わたしは口をつぐんだ。手元の作業だけが淡々と済んでいく。わたしだって、自分が後輩の出世を素直に喜べない人間になるとは思わなかった。どす黒い何かが数時間前の出来事を何度も思い出させ、その黒さを深めては光る。
「何が不満なんですか」
「ないよ、そんなもの」
アンはなぜか執拗に追いかけてきた。
わたしはまだ、自分の気持ちを言葉に表せるほどの整理がついてない。彼女が努力する姿を見てきたからこそ、何倍も今の彼女が輝いているように見えているのかもしれないし、針が刺せるままであれば、あの場の立っていたのは自分だったかもしれないと恨めしく思っているのかもしれない。自分の気持ちが一番よく分からない。
「香月さんと出会ったとき、その大学病院を辞めてもう1年くらい経ってたの」
「覚えてますよ。瀬野さん、あのときクリニックの面接帰りだって言ってましたよね」
ふと、こちらを睨むアンの目を思い出した。香月さんの愛人と勘違いされていたのだ。初対面の日のことを、アンは笑って謝った。
「それで、その面接を受けるまでの1年は、保育園とか高齢者のデイサービスとか、とにかく医療行為がないところにいて……」
「医療行為がないところ? 看護師なのに?」
歯に衣着せる彼は、もうひとりのわたしだった。わたしはこの言葉にずっと怯えていた。
「看護師って言ったって、医療行為がない仕事もいっぱいあるの。医療行為だけが看護師でもないし」
言葉はするりとなんの抵抗もなく出た。これまで何度もイメトレしていた言葉だった。大学病院を辞めてからというもの、誰かにそう問われることにずっとびくびくして来たのだ。
保育園看護師もデイサービスの看護師もどれも必要な仕事だ。医療行為はできないが、生活の中に医療の目があることは人々を安心させる。
「なんで急に
それはごく自然な、当たり前の返事だった。わたしは、針が刺せなくなったときのことを彼に話した。