「おかえりなさい、赤城さん」
診察室の雰囲気の悪さを払うように、わたしは伊倉さんをまねて彼に声をかけた。
「何本も取るんだよ。血、なくなるかと思ったあ」
彼の後ろに立つ看護師に会釈すると、あちらも軽く頭を下げてきた。診察室の丸イスに腰かけたのを見て、看護師はまた奥の部屋へ戻っていく。林田先生が、入れ替わるように話を始めた。
「赤城さん、入院についてですが、とりあえず1か月。同意はさっきもらったけども、形態は医療保護入院で最初は。一応ね」
医療保護入院とは、入院の必要性があるものの、患者自身が判断できない場合に、家族が代理で入院に同意し、精神保健指定医の診察で入院することができる方法である。前回も初めは「医療保護入院」で入院し、あとから本人の同意で入院する「任意入院」に切り替えた。
「ご家族には、こちらの相談支援員から連絡を入れましょう。近くに住んでないとのことだけど、前回は同意もらえてるから。多分今回も大丈夫」
キーボードを打つ音と、赤城さんの元気のいい返事だけが診察室に響く。
赤城さんは言葉の意味を理解しているのだろうか。妄信的な先生への信頼がわたしはとても怖かった。
「今回の入院の目的は、お薬の調整。今デポ剤打ててないからね。これができないと在宅では厳しいよ。一旦、入院して調子を整えましょう。そしたら近所の人の声も聞こえなくなると思いますから」
「そりゃ聞こえなくなりますよ。病院で寝泊まりするんでしょ? ははは!」
赤城さんの高らかな笑い声が、耳に引っかかる。ずっと気分の高揚が続いている彼に、「じゃあそのまま入院手続き。診察室を出て少し歩いたところにある専用窓口へどうぞ」と手短に告げた。
「ありがとうございます。今日からまたよろしくお願いします!」
勢いよく立ち上がる赤城さに釣られて、わたしも席を立った。後ろを向き、スライド式のドアにわたしが手をかける。すると、「あ、そうだそうだ」と林田先生が何かを言いかけた。わたしと赤城さんは、一度背を向けた先生の方向をふたたび振り返る。
「赤城さんは、独り暮らしがいいの? グループホームは?」
「グループホーム? 僕まだそんな年じゃないですよ」
「ああ、高齢者のじゃなくて。若い人も入れるところがあるんだよ。知らない?」
林田先生は、暗に精神科のグループホームをすすめていた。独居で暮らすことに不安を抱える精神障害者が共同で生活する施設だ。共同と言っても、ワンルームの個人スペースが与えられてトイレやお風呂は共用であったり、マンションやアパートを部分的に借りて一人または複数でひとつの部屋で暮らしたりする場合もある。いろんなスタイルがあり、利用者の障害特性や病状に合わせて選ぶことができる。
しかし首をかしげてぱっとしない表情を浮かべる赤城さんを見て、林田先生はわたしを一瞥してから、「相談支援員ついてるよね? 聞いてないの?」と訝しんだ。
「じゃあ訪問看護さんからでもいいから話しといて。飲み薬が正しく飲めないってことで月一の注射薬に変えたのに、それも難しいとなると、もう少し人の目が合った方がいい」
ぶっきらぼうに言い放った。それはひやひやするほどの正論だった。余分な言葉はないが、精神疾患を持った人への怯えもなかった。
「まあ、ゆっくり考えましょう。時間はあるから」
林田先生は言葉に詰まる赤城さんにそう言って、「はい、じゃあ」と話を切った。
流れるように診察室を出て、赤城さんに声をかけた。
「最後の話、赤城さんはどうですか」
「グループホーム? どうかなあ。分かんない」
けろっとしてテンポよく歩く赤城さんを見て、体調を整えてから話をしようと思った。一緒に考えていく必要がありそうだ。自分だけではない。眞鍋先生や相談支援員の川口さんなどの支援者の話し合いをする機会が必要だ。
窓口で話をした後、一度入院準備に戻る。大学病院へは自分で戻ることができるとのことだったので、わたしは眞鍋先生に連絡を入れてから赤城さんと別れた。
まなべ精神科クリニックの職員用裏口に立つと、ほっとした。移動の時間を含めても4時間半ほどしかたっていないのに、なぜか心が安らぐのを感じた。
「お疲れさまでした。受診同行、ありがとうございました」
クリニックの廊下に、ちょうど診察を終えた眞鍋先生が顔を出していた。
「お疲れさまです。詳細は電話でご報告した通りです。何か月か入院する可能性もあるとのことで」
「諸々あとでカルテ確認しますね。まだ診察があるので、取り急ぎの話があれば今伺いますが」
急いでいると言いながらも丁寧に話を運ぶ眞鍋先生に、わたしは安心を覚える。
「いえ、何も。病院の相談支援員からご家族に連絡は付いたようなので、あとは退院が決まり次第クリニックへも連絡が来るそうです」
「分かりました。ありがとうございます。そうしましたら、今日はもう上がってください。他の方の訪問は常勤さんに回してもらってますから」
眞鍋先生は「お疲れさまでした」と言って、また診察室の中へ消えた。