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第50話:元主治医の見立て

「どう? ご近所さんもうるさいってことだし、一回入院してみる?」

 恐ろしく軽い誘いだ。先生は「ベッドの空きもちょうどあるし、感染症がクリアできれば……」などと、またひとり話を進める。

「先生がそう言うなら! 僕は先生に賭けてるんでね」

 これだけの問診で入院まで決めてしまうのか、と呆気にとられていると、赤城さんは素直に先生の提案を受け入れていた。病気で困ることはないといいながら、病院に入院することは受け入れている。

 いくらもせず、先生の指示で奥の部屋から再び出てきた看護師が、採血をするといって赤城さんを連れて行ってしまった。彼のハンドバッグだけが、診察室の荷物かごで静かにしている。

 診察室には林田先生とわたしだけだ。

「……まなべって、まだ受診同行なんてお金にならないことしてるんですね」

 開口一番に飛び出た言葉に驚いた。反射的に言葉を返せずにいると、林田先生は続けていった。

「コスト、どうやって取ってるの。訪問として処理? ……看護師じゃ分からないか」

 またパソコンの画面に視線を戻し、不愛想にキーボードでカルテの続きを打ち始める。

「訪問看護さん的にはどうなの」

 少しは訪問看護師の話を聞く気があるようで、林田先生はくるりと椅子を回して初めて身体ごとこちらを向いた。

「週1訪問で状態観察していますが、食事が取れているのは本当です。本人も簡単なものであれば自炊しますし、夕食は宅食を利用しているので。食事している痕跡もあります」

 冷蔵庫の中や外に袋のまま置かれたごみ袋の中を頭に思い浮かべる。冷蔵庫が空っぽだったことはない。レシートもテーブルの端に置かれていて、購入品はたいていお弁当とお気に入りのお菓子と決まっていた。

「また、睡眠は数週間前から若干ばらつきがあります。本人の申告が本当であれば、寝つきは悪くなりつつありますが睡眠時間自体は取れています。1日7時間前後は」

 わたしは精神症状についても先生に報告した。担当看護師が急遽産休に入ったことで精神状態が崩れてきたこと、これまでデポ剤を打っていたまなべ精神科クリニックの受診に来なくなったこと、そして、眞鍋先生や以前の担当看護師のことを忘れてしまっていることなどを共有する。

「デポ剤打てなくなっちゃって、あんな感じと」

「そうです。以前は、どちらかと言えば暗い物静かな方だったのですが」

「あー、陽性症状の出初めでハイになる人なんだよねー」

 どこかあしらうように話す癖が鼻に突く。彼は元主治医だ。本人を忘れていたとしても、目の前にカルテを見返せばある病状の経過は分かる。

「赤城さん、本当に寝てる?」

「すみません、本人の言葉以外に確認のしようがなく。独居なんです。ご家族遠方で……」

「まあ、そうだよねー。週1回1時間だけじゃ何も分かんないよねー」

 素で言っているのか嫌味なのか分からない微妙な合間を抜けていく。「すみません」と言っても、返事はなかった。



「てかさ、この人、知的あるよね」

 キーボードを叩く音が止んだ。どうやらカルテを書き終えたようだ。

「診断は降りていませんが、そのように見えることはあります。統合失調症の影響かもしれませんが」

 感情に大きな波があり、相手のことを考えずに話をしてしまう。考え方やふるまいが幼児のように感じられることが度々あった。初めて赤城さんの家を訪問した際も、林田先生がいる大学病院の出身と話すと、途端に異常な食いつきを見せた。伊倉さんが体調を崩して休むことを告げた日も、感情の整理ができない子どものようだった。他人がいても、お構いなしに自分の内から溢れ出す感情を制御できず、安否を気遣うところまで思考が巡らない。初老を迎えた男性としてはあまりにも素直すぎる不気味さがあった。

 そうは言っても、統合失調症でも長期に渡る場合や内服薬の影響で認知能力は下がることはある。ただ、赤城さんは大学病院からの転院でクリニックへやってきた。病棟看護師からのサマリーなどは渡されているものの、そこに書いて無ければ終わりだ。親族と会うこともないクリニックや訪問看護としては、判別するにも材料が足りない。

 わたしは、林田先生がどう判断しているのかを聞いてみることにした。しばらく入院していた病院なら、サマリーに書くほどでもなかった情報を持っているかもしれない。

「昔からなんだよ。前の入院でお母さんが来てて。こども病院とかはかかってなかたみたいだけど」

 統合失調症の診断が降りる前から、知的障害を疑う初見が聞かれていたことを初めて知る。林田先生は、数年前のカルテをさかのぼりながら話をする。ガリガリガリガリとものすごい速度で、マウスのホイールを人差し指で動かした。

「まあでも、お母さんもちょっとボーダーな感じ。受診に至ってない。このくらいの世代だと、養育もなかったし、まあ、見逃しだよね、単純に」

 障害児支援がまだ整っていなかった時代、親世代の知識もまばらだ。親にも障害の気があるならば、なおのこと受診までの道は険しい。

「あの人、1回ハイになると、戻るまで長いから。とりあえず本人に入院期間は1か月と説明するけど、数か月になると思ってて」

 手短に返事をして、訪問バッグから取り出したタブレットに、先生の見立てと入院期間を記録する。すると、ちょうど赤城さんと採血の看護師が診察室に帰ってきた。


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