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第49話:ハヤシダセンセイ

「ああ、あった。分かりづらくなったなあ」

 赤城さんは、大きい観葉植物の脇に見え始めた受付を指さして言った。上にぶら下がる看板には「精神神経科」と大きい文字で書いてある。

「やっと着きましたね。自立支援や保険証など持ってきましたか」

 受付に出す書類を確認するために、赤城さんは持ってきたハンドバッグを開けた。クリアケースに入った精神科の自立支援医療の受給者証と、その下に重なるように自己負担限度額管理表が見えた。赤城さんは慣れた様子で受付を済ませ、ひらけたフロアに並ぶ長椅子に腰かけた。

「初めてくる感じがするよ」

「前回は結構前でしたよね。1年半は経ちましたかね」

「うん。ハヤシダセンセイ、僕のこと覚えてるかなあ」

 にたにたと笑う赤城さんが、どういう気持ちでいるのかは分からなかった。何が面白いのだろう。以前を懐かしんでいるようにも見えるが、その表情はどこか異様で、これから始まるエンターテインメントに期待を寄せ、高揚しているようにも見える。

 しかし先生は、大学病院の医師だ。1年半以上前に診た患者を覚えている可能性は限りなくゼロに近かった。転院してしばらく経っている。先生が自分を覚えていなかったら、赤城さんは取り乱したりしないだろうか。


 待ち時間は長かった。予約なしで受診したせいだ。

「153番の方、2番診察室へお入りください」

 待合フロアの大きな液晶画面に数字が表示される。赤城さんは受付で渡されたクリアファイルの前方に挟まった黄色の番号カードを見比べ、「呼ばれました」と言ってから立ち上がった。

 赤城さんが2回だけ白い無機質なドアをノックしてから開ける。スライド式のドアは、簡単に開いた。

「こんにちは。赤城洋二さんですね」

 目の前に座る男性は50代ほどで、「林田貴弘」と書かれたネームプレトを白衣につけていた。グレーの回転式のイスに深く腰掛けてカルテに目を通しているこの男性医師こそが、赤城さんの言う“ハヤシダセンセイ”だった。

「お久しぶりです、ハヤシダセンセイ。僕のこと覚えていますか」

 幼い子どものように、赤城さんは自分の存在が相手の中にあることを確認したがった。

「ええ。久し振りでしたね。最後は、えーっと……」

 林田先生はカルテを開くパソコンに再び視線を戻し、最終受診日を確認して赤城さんに伝えた。それを嬉しそうに聞いて頷く彼を見て、わたしは心にもやがかかる。

「訪問看護?」

「はい、まなべ精神科クリニックの看護師の瀬野と申します。本日は本人様より受診同行の希望あり、同行させていただいております」

 手短に自己紹介をすると、先生の後ろに立っていた外来看護師が後方の丸イスを指さして「それ使ってください」と言った。林田先生は会釈するだけだった。


「えーっと、今日は主治医の眞鍋先生から聞いていますよ。あまり調子がよくな……」

「ええ! でもダイジョブです。それに主治医はハヤシダセンセイでしょ。忘れたんですか」

 話を遮って、口早に先生を問い詰める。

「赤城さん、一回聞いてください。まずご飯。ご飯は食べていますか」

「はい。もちろん!」

「次。じゃあ、睡眠。寝つきは」

 ぶつ切りに単語を強調して話す口調は強かった。赤城さんが全幅の信頼を置く林田先生は、切れ者タイプでハキハキ言うキャラだった。それは、眞鍋先生とは明らかに真逆だ。

 大学病院という場所はこんな場所だったことを思い出した。いまだに権威主義で、横暴とは行かなくとも、病院外では通用しない横柄さを持って患者に接する。意識をしっかり巡らせている人だけが、患者と同じ目線に立つのだ。

――こんな口調じゃ、まず家にも入れてもらえないだろうな。

 わたしは、すっかりになっていた。愛想は何より大事だ。いくら正義を味方につけていても、受け入れてもらわなければ始まらない。

「営業職ではないのに」と訝しんだ自分が、もうだいぶ遠くにいるのを感じる。

「寝れてます。でも昨日は出かけていたので。田舎まで。……今朝早くに帰ってきたんですよ。だからいつもと違いました! 今日はあまり寝てないです」

 さすがに会話が怪しくなってきて、パソコンに向けられていた林田先生の目がこちらを向いた。

「山?」

「そうです。前話しませんでしたっけ。ほらあの」

 指をさす方向は明確に定まらない。人先指の先が宙で泳いでいた。

「訪問看護さんにお話しを聞いた方がいいかなあ」

 それはあとでいいや、と独り言をこぼし、林田先生は問診を続けた。簡単な言葉、もはや単語での質問は、こちらがひやひやするほどだった。当の本人は、怒りだすこともなく、羨望の眼差しで林田先生を見ている。彼が教祖かのような信仰心だ。

「困る症状は? 今、近所の人の声は聞こえてる?」

「近所の人は今朝、ちょうど。集合住宅なんでね、やっぱり声は聞こえます。でもダイジョブですよ。あんまりうるさいときは、大家さんに相談するので」

 赤城さんはもっともらしい答え方をする。いつも静かな木造アパートの渡り廊下では、誰の声も響かない。部屋の電気がついていても、声ひとつ聞いたことがなかった。それでも、彼にとって幻聴は、現実の世界で起きていることなのだ。

 病気で困っていることはない。ただちょっと、ご近所トラブルに悩んでいるだけ。

 そう話す赤城さんを見て、林田先生は入院を提案した。


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