「あれ、瀬野さん?」
多くの人が行き交うフロアで立ち止まる。聞き覚えのある声に、わたしは振り返った。
「救急外来でお世話になった、鈴木郁です。覚えてます?」
救急外来の見慣れたスクラブを着た女性が立っている。後輩の郁ちゃんだった。少し髪の毛が伸びて、後ろでひとつに束ねている。少し落ち着いた雰囲気を纏う女性になっていた。
「もちろん覚えてるよ。久しぶり!」
ネームプレートには「副主任」の文字がある。スピード感ある職場の1年半は大きい。昇格した後輩を見て、心に影が差す。
「まだ看護師をされているんですね。あ、もしかして介護ですか……?」
心の暗がりがさらに濃くなる。
しかし、郁ちゃんに悪気はない。他院で別のクリニックのスクラブを着ているのは、確かに違和感がある。病院に付き添いができるのは、介護スタッフか、相談支援員やケアマネと相場が決まっていた。
「精神科クリニックでやってる訪問看護部門にいるの。今は受診同行中で」
看護師を続けている。それだけは訴えておきたかった。
「瀬野さんが精神科?!」
「そうなの。驚くよね」
すぐ横には、訳も分からずニタニタと笑っている赤城さんがいる。郁ちゃんは赤城さんに硬い愛想笑いを返した。
「ごめん、郁ちゃん。精神神経科の外来受付ってどこだったかな」
もう聞いてしまった方が早い。だって彼女はこの病院で働く、救急外来の副主任さんだ。もう知らないことなど何もないだろう。
「あっちの棟ですよ。今年の春、ちょっと外来の配置が変わったんです」
「ありがとう。助かる」
彼女は「一緒に行きましょう」と赤城さんへ声をかけた。3人で大学病院の広い廊下を歩く。エントランス付近を過ぎると徐々に人通りが減った。会計待ちの人が座る長椅子の行列を過ぎれば、いよいよ閑散とし始める。
ひらけた廊下から中庭が見え、赤城さんはガラス戸を開けて外に出た。花壇とベンチがひとつだけある小さな場所だった。赤城さんを引き留めずに見ていた。
「……わたし、瀬野さんに感謝しているんです」
急に口を開いたのは、郁ちゃんだった。
「退職のとき、瀬野さんがわたしを推してくださっていたこと知ってるんです。たまたまあのとき通りがかって、看護師長と話をしているのを聞いてしまって」
「ああ、別に大したことじゃないよ。郁ちゃんが採血上手だったから」
採血が上手だと、当時の看護師長に郁ちゃんの名前を挙げて出てきた。自分が抜けた穴を埋められる後輩だと思ったのだ。
「あのあと瀬野さんが抜けて忙しかったですが、お陰で副主任にまでなれました。“副”なので、役職持ちと言っても実習生みたいなもんですけど。いつも師長と主任の背中を追っています。でも頑張ったら、その分報われるんだって初めて思えました。ありがとうございました」
嫌味のない明るさが、よりいっそう苦しい。彼女はこの大学病院の救急外来という大舞台で努力を重ね、力をつけ、周りに認められた。針を刺せなくなったわたしが、医療行為のない職場を転々と逃げ回っている間に。
「今、出世したい若手が少ないなんて言われていますが、わたしは副主任になれて嬉しいです。その分、人の役に立てたと思えるから。救ってこれたと思えるから。主任までの壁は厚いですが、これはその証のような気がしているんです」
そう言って、彼女はネームプレートに視線を落とす。穏やかな瞳の奥に闘志が燃えていた。
昔から彼女は謙虚な野心家だった。珍しいといえば珍しい。一歩一歩着実に歩みを進める真面目さで、若くして副主任に上り詰めた。
「わたしはここで、ずっと働いていきたいと思っているんです」
だから、と語る先を聞けなくなった。
「わたしも思っていたよ」
はっとして彼女は口をつぐんだ。ちょうど中庭が見えるところまでたどり着き、鏡に反射した違う色のスクラブに目を背ける。
「あ、あそこの角かな? もう行けそう。ありがとう郁ちゃん。いや、鈴木副主任だね!」
そう言って、わたしは郁ちゃんを肘で小突いた。おどけきれない空気を物ともしないのは、中庭の花を見て上機嫌になる赤城さんだけだった。
「やめてください。瀬野さんがいたら座れなかった場所です」
「ええ? そんなことないって」
誰も悪くない。仕方ないことと理解していても、お互いが見えない何かに気を遣い、精一杯の笑顔を貼り付けている。
「あの……、針刺しの方はどうですか」
最後に郁ちゃんは、赤城さんに聞こえないようさらに小声で聞いてきた。訪問バッグの肩紐を握る手に力が入る。
「まだ刺せないの。この前クリニックの先生に腕貸してもらったんだけど、全然。触れはするんだけどね」
「もう結構経ちますよね……」
なぜなのかは分からない。案外、久しぶりにやってみたら刺せるかもと淡い期待を抱いたのもほんの一瞬のことだった。
「今いる訪問看護は針刺し業務がなくて助かってるの。採血は病院へ行くし、ターミナルや難病も扱ってないから家で点滴とかもないし」
「なるほど。精神科訪問看護って、結構穴場なんですね。……でもわたしは精神の患者さんと部屋でふたりきりはちょっと」
「合う合わないは分かれるらしいね。訪問看護の先輩も言ってた」
苦い笑いを浮かべる彼女は、いつかの自分に重なった。もうすっかり精神科に馴染んでいたことに気づかなかった。安心と物寂しさが入り混じる。
「
「鈴木副主任の下で働ける日が来るといいなあ」
わたしがおどけると、彼女は「だからやめてくださいってば!」と笑った。
そのとき、彼女の胸ポケットから低い音のバイブレーションが聞こえ始めた。ポケットの中に入っていた院内PHSをちらりと見る。わたしは、彼女を手で払う動作をしながら言った。
「道案内させちゃってごめんね。大学病院は大変だと思うけど、頑張って。応援してる」
「ありがとうございます。瀬野さんも」
彼女は赤城さんにも軽く会釈をしたのち、そばの階段を勢いよく駆け上がっていった。そして、すぐにその背中も見えなくなった。