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第47話: 受診先

 結局、赤城さんはその後も受診すると言いながらもクリニックにいかない日々が続いた。日に日に異様な笑顔になっていく。ぎろりとした目つきが鋭かったはずの赤城さんが、奇妙なまどろみの中にいるような笑顔を見せて訪問を受け入れる。奇異な光景だ。部屋は小物が出たままになっていることが増え、ペットボトルがごみ袋お周りに乱雑に置かれ始めた。近くに彼の面倒を見てくれる親族はいない。

 いよいよ発言も変わり、赤城さんは頑なに「主治医はハヤシダセンセイ」と繰り返した。入院中の主治医の名前だった。

 彼の中では、眞鍋精神科クリニックへ転院したことがすっぽり記憶から抜け落ちているようだった。眞鍋先生のことはおろか、伊倉さんの名前にまでも反応しなくなっていた。これでは受診してデポ剤を打つことは叶いそうにない。眞鍋先生の判断で、赤城さんの言う“ハヤシダセンセイ”がいる桜谷大学病院へ受診しデポ剤を打つ方針になった。

「ハヤシダセンセイとお話ししました。すぐに桜谷大学病院の予約を取りましょう。赤城さん、今使っているお薬が切れて体調が悪くなってきていますよ」

 急ぎ、桜谷大学病院への受診を促す。確実に予約を取るために、一緒に今電話することを提案するが、赤城さんはのらりくらりとかわすのだった。

「別に体調は悪くないよ。へへ。今朝も料理したし。魚の切り身を焼いてさ。もう夏の魚が出回ってるんだ。知らなかったなあ」

 饒舌に話す彼の表情は、奇妙なほど明るい。赤城さんの古いアパートの一室で、わたしは彼とふたりだ。どこからか気味の悪さが湧いて押し寄せる。

「じゃあ瀬野さんも一緒に行こうよ!」

 緊張が走る室内で、突拍子もない提案が飛んだ。

「訪問看護では行けないんです」

「なんで? 冷たい」

 訪問看護では、「受診同行」を保険サービスで行うことができない。自費で全額利用者負担になるか、クリニック側が無賃でやることになる。

「そういう決まりで……。相談員の川口さんはどうですか?」

 わたしは、赤城さん担当の相談支援員さんの名前を挙げた。訪問看護は、家である場所にしか行けないのだ。

「ええ、いやだよ。半年に1度くらいしか会わないんだ。僕の何を知ってるっていうのさ」

「それもそうですが……」

 赤城さんの一人称が「僕」だったことを初めて知る。やはり滑らかに話しをする彼はどこか不安になる。

 そのうちに、さらに怪しいことを言うようになった。

「そう言えば昨日、川口さんの田舎がある地域の山に行ったんです。あの野菜を送ってくれる親戚が持ってる山で。たまたま! それで、雪が降っていて……」

「……山に行ったんですか。それは遠かったですね」

 一気に緊張感が増す。実際には、この部屋でそんなものを感じているのは自分ひとりだけだ。

 妄想と思われる言動があったとき、安易な否定は許されない。本人にとっては疑いようのない現実なのだ。

「そう。それで今朝帰ってきたら、隣の人が『引っ越せ!』『下手な歌聴かせるな!』なんて言うもんだから、びっくりして窓を閉めたんです。歌なんて歌ってないのに。ほら、あそこです。カーテンも開けてないでしょ?」

 長かった梅雨が明け、もう夏がすぐそこまで来ている。遠い地域の山へ行ったと話したり、夏と言ったり冬と言ったり、つじつまの合わない話は、妄想が疑われた。話を聞くと隣人トラブルになりそうな幻聴も聞こえ始めている。


 わたしは一度部屋の外に出て、急激な状態の悪化を電話で眞鍋先生に報告の電話を入れた。診療中のため折り返しの電話を待つ。梅雨の残りのじめじめとした湿気が頬にまとわりつく。数分後も経たずに、すぐに佐藤さんから折り返しの電話があった。

「お疲れ様です。事務の佐藤です。眞鍋先生が桜谷大学病院へ連絡を取ったところ、今日、林田先生が外来にいるそうです。急遽受け入れしてもらえることになったので、そのまま赤城さんと受診してきてもらってもいいですか」

 赤城さんを受診に連れていける身内はいない。眞鍋院長は、この状況を長引かせることはできないと判断したらしかった。


 これからふたりで急遽受診することになり、部屋に戻って赤城さんに伝える。彼は二つ返事で立ち上がり、貴重品が入ったバッグを手に持った。

「では行きましょうか」

「よかったあ。安心だあ」

 危険行動はないものの、陽性症状が出始めている人とバス移動をするのは肝が冷えた。こちらの気も知らず、赤城さんは終始ニヤついている。わたしはひとり用の優先席に赤城さんを座らせ、その脇に立つことにした。それでも周囲の視線が痛い。乗客の何人かは、こちらを見て怪訝そうな顔をする。赤城さんの妄想が刺激されないよう、わたしはそれらの目から隠すように立った。



 バスに揺られてやっと大学病院へ着くと、何度も見慣れた風景が広がる。2年前まで勤めていた職場だ。

――桜谷大学病院

 中央玄関のエントランスには、病院名が大きく冠される。その横を通り、精神神経科の外来受付を探しながら1階を彷徨う。

 救急外来からは遠かった気がする。あまり行かないフロアの記憶は朧気だ。フロアマップを見にエレベーターホールの付近を通りがかった、そのときだった。


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