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第46話:変化する状況

 来月に決まったクラフトコーラの販売が待ち遠しい。試作も宣伝用のポップもできた。新しいメニュー表も完成した。「Coming soon…」の文字に踊る。



 すべてが順調と思えたが、ひとつ気がかりなことがあった。赤城さんだ。訪問拒否はしないものの、短く切りあげることが続いていた。そしていよいよ、眞鍋先生の診察に来なくなった。

「赤城さんに一言、声かけてもらっていいですか。これまでちゃんと来ていたんですけどね。一昨日はどうしたかなあ」

 眞鍋先生も、初めてのことで気にしている様子だった。既に受付の佐藤さんからリマインドの電話をかけてはいたが、その後も彼がクリニックに来ることはなかった。


 わたしはその訪問で、赤城さんに受診の件について聞いてみた。

「赤城さん、次の受診日はいつでしたっけ」

 素知らぬふりをして、彼に問う。彼はいつもの調子でA6のノーを棚から取り出した。くにゃりとよれた表紙は擦れている。飲み物をこぼしたような薄茶色の汚れが見えた。そのノートをペラペラと捲る。ページには、ところどころ走り書きでメモが書いていた。彼はいつもそこに、次回の受診予定を記していた。

「ああ、2日前だ」

 ぼそりと言った声は、初めて知ったよう反応だ。

「注射のお薬の効果がもう切れるので、早めに受診してください。クリニックに電話できますか。……予約を取り直す必要があって」

「できます。いつもやってるから」

「そうですよね。では眞鍋先生には、これから受診すること伝えておきます。赤城さんは、クリニックに電話をして早めに予約を取ってくださいね」

 はい、と言った彼はどこか頼りなかった。話ができないわけではない。しかしどこかぼんやりとしている。病気の悪化の徴候なのではと睨むが、決定打には欠ける。


「最近の調子はどうですか。何か聞こえたり、言われたりは」

 調子が悪くなったとき、最近の赤城さんは、現実とのがつくことが多かった。もちろんすべてではない。伊倉さんがいたころも、言動から察するに、現実だと認識してしまっている幻聴も見て取れた。しかし徐々に彼は、この疾患との付き合い方を見つけ始めていた。いい方向に在宅療養が進んでいたはずだった。

「ない。多分」

 今日も言葉数は少ない。幻聴幻覚などが生じる陽性症状よりも、意欲低下や表情が乏しくなる陰性症状の出現に注意すべきだろうか。わたしは日常生活をいつも通り送れているかが気になり、問診を続けた。

慎重になるわたしとは対照的に、彼はマイペースに質問に答える。

作業所は週1~2回の通所をキープしていた。作業所からクリニックあてに電話がないので、それは事実だろう。

 食事の方は、話の流れで冷蔵庫を見せてもらった。これは訪問看護師がよくやる手段だ。人の家の冷蔵庫を見るのは無粋だが、世間話の中で自然に冷蔵庫の前の立つのは立派な業務のひとつなのだ。病院とは違い、食事の準備から摂取まで、利用者本人に任せられている。そのため訪問看護師は、栄養バランスや摂取量だけでなく、「食事自体をしているか」「いつ食事をしているか」などにも注意を払う必要があった。

 ほんの少し気を抜くと、冷蔵庫に何も入っていない人がいたり、おつまみとお酒しか入っていなかったりする人がいる。一人暮らしの人も多いので、その人にあった調理方法や宅食サービスの利用などを提案するのも訪問看護師の務めだった。

 自然とついた食事準備の知識を持って、わたしは赤城さんとともにキッチンの方へ行く。彼が開けてくれた冷蔵庫の中には、簡単に食べられる総菜や冷凍食品が入っていた。

 そして玄関の近くに広げられている大きなごみ袋に目をやる。袋の中には、夜に定期で頼んでいる宅配弁当のプラ容器が捨てられていた。冷凍食品の外袋や、チョコレート菓子の小箱も入っていた。蓋つきのごみ箱を開けてまでは見ないが、フローリングむき出しに置かれたごみ袋の中身を見ない訪問看護師はいない。わたしもそっと横目で透けるごみ袋を見た。食事状況に大きな変化はなさそうだった。

「夜は眠れていますか」

「昨日は2時」

「少し遅かったんですね」

 普段は日付が変わる前に寝ている赤城さんが、夜更かしをしていた。

「うん。でもまあ、別に。何してたわけでもないけど」

「寝つきが悪かったですか」

「うん」



 何となくの違和感を抱えたまま、翌週の訪問日はすぐにやってきた。出勤すると、眞鍋先生が診察室から顔を出している。

「あ、瀬野さん。おはようございます」

「おはようございます。どうかしましたか」

 クリニックの廊下に出てきた眞鍋先生は、表情を曇らせている。

「実は赤城さん、今週も受診してなくてですね。デポ剤の効果ももう切れているころだし、どうしたもんかなと思いまして」

 赤城さんはまだ受診していなかった。注射薬・デポ剤の効果は4週間。すでに5週間を過ぎた。とっくに前回の注射の効果は切れている。彼に内服薬はない。自分で管理できないから月1の注射薬になった経緯を思い出す。そうなれば、今の彼は何も服薬していない状態だ。

「先週、予約を取り直すと言っていたんですけど……今日また受診促ししてみます」

「お願いします」

 伊倉さんがしばらくお休みすることを告げた日を思い出す。うつむき気味に、どこを見るでもなく表情を硬くする。食事は取れており、睡眠状況も目くじらを立てるほどでもなかった。そんな日もあるか、と思えるほどの小さな変化の中に魔物は隠れている。


 院長が診察室に戻ったことを確認して、わたしは小走りで着替えに向かった。


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