訪問着のスクラブを着替え、その足でバーへ出勤する。もう慣れたものだった。まだ人が出始めない通りを抜け、螺旋階段を下りる。重たいドアを開ければ、香月さんがフロアの電球を替えていた。
「お疲れさまです」
脚立に乗っている香月さんはキュッキュッと電球の接続部分を捻ると、ゆっくりと降りた。
「お疲れだね」
「そう見えますか?」
「なんとなくね」
トンッとフロアの床に革靴の底が付いた音が聞こえた。その足で脚立を片づけ、戻ってきた香月さんは、カウンターに出しっぱなしだったグラスを拭き始める。わたしは今日の勤務の話を彼に打ち明けた。
「今日から独り立ちだったんです。教えてくれていた先輩看護師が入院しちゃって」
「あれ、そうなの。先輩って妊婦の?」
こちらを見る瞳は心配を宿す。そうだ、この目だ。違和感ははっきりと自覚できるまでになったが、すべてを理解することはできない。そのまま、何食わぬ顔をして話を続けた。
「ええ。安静にしていないといけないので、管理入院に……。それで急遽、独り立ち」
「大変だったね」
香月さんは、訪問看護師の仕事についてあれこれ聞いてきた。どんな利用者さんがいるのか、訪問ではどんなことを聞くのか、ひとりでいきなりできるものなのかなど、興味津々といった様子だった。彼はよくひとを見ているし、そもそもひとに興味がある。変な感心を寄せながら、わたしは精神科訪問看護の話をした。
開店前の準備が終わったころ、香月さんは冷蔵庫から炭酸水を取り出した。控えていた小さめのグラスに氷を入れる。そして次に手にしたのは、先日作ったクラフトコーラのシロップだ。不思議そうに見るわたしに、香月さんは「味見」と言って瓶を開ける。その瞬間、ぶわっとスパイスの独特な匂いが鼻をかすめた。
シロップをグラスにとると、香月さんは待機していた炭酸素を注いだ。大切なもの手放すように、滴るその一滴までに愛着があるようだった。
「利用者さんも混乱していて。おおかたの方は、その妊婦の先輩を心配していたんですけど、一番お世話になっていたはずの人が何も……いや、もちろん驚いてはいたんですけど、こう、なんていうか……」
言い淀む。期待する言葉をもらいたかったわけではないが、あまりに血が通ってないやりとりに驚いたところだった。赤城さんからは、伊倉さんを心配する言葉は一言もなかった。「伊倉さんは大丈夫ですか」「なんで早まったんですか」などと言ってくるものと思っていた自分には、薄情とすら思えてしまった。
「なんで? そういう病気なの?」
「うーん……どうなんでしょう」
赤城さんが患う統合失調症には、確かに認知機能障害があった。判断力や記憶力の低下は考えられる症状だったが、赤城さんほど落ち着いている人に出るものなのだろうか。メインの陽性症状も陰性症状も出ていない。罹患したとしも、年齢のわりには遅かった。
しかし、もともと分からないことが多い疾患だ。100人にひとりがかかるというのに、原因すら明らかになっていない。
「でもさ、ショックはショックなんじゃない?」
「そう思いますか」
「うん。だって、おっさんなんでしょ? そりゃ若い看護師さんの前でビービー泣けないだろ。夜中にちびちび一人酒するかもしれないよ、今夜」
それもそうか、と思い直す。
「コーラさ、スパイスの仕入れの関係で来月からスタートでもいい?」
「それはいつでも。楽しみですね」
目の前に差し出されたグラスの中で、炭酸がしゅわしゅわと跳ねる。薄く茶色の色が移った飲み物は、クラフトコーラと呼ばれ、わたしが知る真っ黒い飲み物とは完全に異なっていた。
「これ、本当にコーラなんですか」
「そうだよ。カラメルで色を付けてないから、まあこんなもん」
出来上がったクラフトコーラを一口飲む。舌の上で跳ねる気泡とともに、ほのかな甘みを感じた。
「あんなにスパイスをあれこれ入れたのに、味は飲みやすいんですね」
もっと薬のような味を想像していたが、これであれば宣伝次第でどの年齢層にも手に取ってもらえそうだ。わたしは新しく作っていたメニュー表を開いた。そして紙とペン、そしてはさみをかき集める。
今の気持ちをポップで表現したかった。跳ねる泡、優しい甘み、ありのままの色、そして口当たりのよさ、そして何と言っても目新しさがある。
注文のときに目に留めてもらいたいひとをイメージして、優しい色の紙を手に取る。
――「今日を、ちょっぴり特別な日にしたいあなたへ」
新しいメニュー表にポップを貼ると、香月さんがのぞいてきた。
「あれ、なんか悩み聞きみたいなことするんじゃなかったっけ」
この前のバータイムで、「カフェでもお客さんを気遣った飲み物の提供がしたい」と言ったことを思い出す。クラフトコーラも、漢方の話が先に出て辿りついたものだった。お客さんには、効能を見て飲みものを選んでもらう。その隙間に入り込む算段だった。
「それもいいなって思ってたんですけど、『疲れてるんですか』『調子が悪いんですか』ってところから始まる会話より、こっちの方が素敵じゃないですか」
明るいドアを開けたなら、その先も明るい気がするのはわたしだけだろうか。
わたしは完成したポップを見つめ、さらりとした紙を撫でた。