太田さんとの簡単な確認を終える。着替えを済ませ、クリニックを出た。
ひとりで出るのは初めてだった。この階段も、大通りから小道に入る曲がり角も、全部伊倉さんと一緒だった。嫌に静かな道だった。ところどころ歪なアスファルトが足に引っかかる。足取りは重い。
そうして着いたのは、金曜日の1件目の赤城さんのアパートだ。窓の鉄格子がいっそう閉塞感を助長させる。わたしはインターホンを押し、「赤城さん、いらっしゃいますか」とドアに投げかけた。錆びれた音を立てて開くドアの向こうには、目つきがどこか鋭い赤城さんが立っていた。
「今日はひとりなの?」
「はい。そうです。実は伊倉さんが早めに産休をいただくことになりまして」
赤城さんは数秒置いて、「ああ」とだけ言った。わたしがひとりで立っていることを受け容れられないかのように、宙に視線を彷徨わせた。一人足りない空間に明るい声は聞こえるはずもなく、ふたりして路頭に迷う。
「もうずっと瀬野さんなの」
「はい」
アパートの外廊下は音が響く。あれこれ話をしようと思ったのに、どの言葉もこの場に合わなかった。
「入ってもいいですか」
「うん、はい」
短く、覇気のない声が返ってくる。わたしは玄関を入り、普段問診をする部屋に通された。相変わらずフローリングに直で座る。思わず「よいしょ」っと言って座り込む。いつもより部屋が広く感じる。初夏に入るというのに、床冷えしているような感覚が消えなかった。
フローリングに|胡坐(あぐら)をかく赤城さんの表情は硬い。
「……先週、言ってなかった」
先に口を開いたのは赤城さんだった。よくよく聞くと、子どもが駄々をこねるようだ。
「すみません、実は少し体調が優れなくて。急なことだったんです」
本当のことなのに、嘘っぽくなる。具体的なことは言えないが、しばらく来れない事実は伝えなければならない。早めに産休に入ったと伝えて、諦めてもらうしかなかった。
「もうしばらくは来ないの?」
「はい。少しの間、お休みする予定です」
わたしがこの家に来るようになったときから、それは決まっていたことだった。早まった時期、言えなかった別れの言葉、訪問する人の変化――人一倍変化を嫌う赤城さんが、穏やかでいられるはずがなかった。
「体調はいかがですか」
「ふつう」
バイタル測定は、やはり血圧だけ拒否だった。彼が血圧測定を拒否するとき、何か言いたいことがある合図だと伊倉さんは言っていたが、今日は聞けそうにない。
「最近気になる症状はありますか。何か見えたり、また聞こえたり……」
「別に」
くたびれたシャツの袖を握る。白いTシャツの上に薄茶色のシャツを羽織っている赤城さんは、終始フローリングの何かこぼした跡を見つめていた。
「作業所へは」
「今週は1回」
「行かれたのですね。よかったです。そこでの困りごとなどはなかったですか」
「……」
会話は続かない。間を掴むのは我慢比べのようだ。講習の座学をクリアし、精神科訪問看護が行えるようになったからと言って、数か月だけの勤務経験では心もとなかった。
会話の隙間を埋めたくなって、話の主導権を持ちたくなるのをぐっと堪える。無言の時間は、よりいっそう口がむずむずした。相手の話しやすい話題に持っていこうとしたり、曖昧な相槌を打って相手に逃げ道を示したりしたくなる。
しかし、ただ
赤城さんは、食事や睡眠状況への問診へ手短に答え、あとは黙っていた。瞳が普段よりよく見える。ぎろりと見開いていた。
「今日はもうこれで」
訪問時間は、あと20分ほど残っていた。粘るか悩む。しかし、今日部屋に入れただけでもよしとしなければならない。
「分かりました。今日はこれで失礼します。また来週、金曜日にお邪魔しますね」
次回の訪問予定を確認してから、わたしは赤城さんの家をあとにした。
全ての訪問を終え、クリニックへ戻る。今の時間であれば、もしかするとクリニックに太田さんはいるかもしれない。あとのふたりの利用者さんたちからは伊倉さんを心配する声が聞かれ、そう言えば赤城さんからはなかったことを思いながらクリニックへの道を急いだ。
「太田さんってもう戻られていますか」
ちょうど廊下にいた受付の佐藤さんに聞く。太田さんはまだ訪問から戻っていないようで、クリニックには診察中の眞鍋院長と受付の佐藤さんしかいなかった。
報告に上げるべきなのか、頭を悩ませる。訪問自体に拒否はなかったが、口数は少なく手短に切り上げる赤城さんの様子は、雑談程度に誰かの耳に入れておきたかった。
しかしまったく緊急の話ではない。今日のところは諦め、カルテに状況を記入する。統合失調症の症状も聞かれなかった。今日のところは様子を見ることにした。