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第43話:青天の霹靂

 無事にミルクティーの難所を超えた。ジャスミンティーが苦手だと言う芦谷さんには、はちみつミルクティーの方が好評だった。ジャスミンの香り高さには癖がある。偏りは一部に刺さるが、万人受けは狙えない。

 一方で、クラフトコーラの出来はまだ分からなかった。煮ていたシナモンスティックやスターアニスが、コンロの方向から独特な匂いを放っている。先ほどスパイスと輪切りにしたレモンをひとまとめにして小鍋に入れたのだった。シナモンスティックは半分に折ると嗅いだことのある匂いがふんわりと香る。レシピを確認しながら準備したシロップには、見慣れないものがたくさん入っていた。とはいえ近くのスーパーでは揃わないような材料は、香月さんが別に調達してくれるので困らない。

 わたしは消毒した瓶にできあがったクラフトコーラ用のシロップを移し替えた。あとはシロップにスパイスの香りがうつるのを待つだけだ。


 帰宅の電車の中でも、お店のことが頭から離れなかった。来週の提供を目指し、次の出勤までに新しいメニュー表のイメージを考える。金糸瓜のイベントが終了後、再び客足が遠のいたことが気がかりになっていた。集客も難しいが定着も難しい。

 いつだったか、芦谷さんは飲み屋街にあるから立地が悪いと言っていた。しかし駅から近いこともあってか、催し物を開けば人が来ないことはないと今回で分かった。ただ、リリユリの影響力が及ばない今後は果たしてどれくらいの人の目に留まるのだろうか。そして、人を呼べたあと、定着までいけるだろうか。漠然とした不安が押し寄せる。



 不安は翌日までめぐった。

 昼過ぎ、いつものようにクリニックへ出勤すると、伊倉さんの姿は見えなかった。それよりも、なにやら物々しい雰囲気が院内に充満している。職員玄関で靴を脱いでいると、常勤看護師の太田さんが、廊下に出てきた。そしてわたしを見つけるなり近寄ってくる。

「あっ、瀬野さん! ちゃんなんだけど、実は切迫になって入院することになったの」

 突如、身体が波打つような感覚がわたしを襲う。太田さんの言い間違いなど今はどうでもよくなるほどの衝撃を受けた。伊倉さんはあと少しで産休に入るところだった。

「そんな……最後の最後に切迫早産になってしまうなんて」

 わたしはそれ以上、言葉が出なかった。

 やはり無理な訪問を続けていたのだろうか。ひとりひとりに親身になるあまり、ストレスを抱えていたのだろうか。大きなお腹をさする伊倉さんの顔が浮かんだ。何度も見た光景だ。その度に、「あと少しだからね~、どうしても張るんだよね」と受け流す彼女に、休むよう強く言うべきだった。後悔は大波となって押し寄せる。今更何にもならない。皮膚がじんわりと湿った。


 ショックを受けるわたしに、太田さんは伊倉さんの状況を伝えてくれた。

「今はもう入院してるから大丈夫よ。さっきクリニックに旦那さんから電話が来てね。赤ちゃんはまだお腹の中にいてくれてるし、本人も元気だって。あとは祈るしかないわ」

 恰幅のいいナースは、なぜかこんな心細い場面で安心をくれる。太田さんは精神科こそ1年ほどの経験だが、長く看護師歴があるベテランナースだった。

 しかし、1年以上一緒に働いている同僚の名前をいまだに間違える。そんな人のどこに信じられる要素があるのかは自分でも分からなかったが、今は太田さんの言う通り、何もなく出産まで行くことを願うしかない。他人の「大丈夫」に縋りたいだけなのかもしれない。実体のない不安は、実体のない言葉に安心を求めてしまう。断言に弱い。言い切ってくれることを願う自分の欲求が透けて見えた。


「それでこれからのことなんだけど、瀬野さんはもうひとりで行けるよね?」

 へ? と、腑抜けた声が漏れる。ぐっと現実に引き戻された。祈っている場合ではなかった。産休で抜けることは何か月も前から決まっていたことだったが、予定より早いこの大穴は、わたしにも影響を及んだ。

「……大丈夫ですかね」

 引き継ぐ予定だった利用者さんたちは、もう全員挨拶を済ませ、週1回または2週に1回の頻度で会っている。一番拒否が強かった赤城さんも、今はもうなんとか日々の訪問は受け入れてもらえている。ただ、伊倉さんの件は急なことだった。

「変化に対応できない利用者さんもいるかもしれないけど、そこはもう徐々にやっていくしかないから。難しそうなら常勤でも入れないか検討するから言ってね。でもずっとちゃんメインで行ってたから、瀬野さんが訪問するのとさほど変わりないかもしれないけど……」

 伊倉さんだけで訪問シフトを組んでいた弊害だ。わたしは「わかりました」とだけ言って、急に決まったひとり訪問に備える。

「共有は今まで通りタブレットから共有してもらって、緊急時は先生にコール。訪問のことで困ったら常勤で回しているスマホにかけてね。番号知ってたわよね」

 着々と進んでいく業務の確認に、逃げられないのだと知った。


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