目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報
第40話:コルクボードのメッセージ

 客の出入りがひと段落した時間帯、香月さんは奥の部屋から出てきた。

「アン~、なんか作って~……」

 ぺと、とカウンターに倒れ込む彼は、手ぶらだった。どうやら言っていた仕事が終わり、もうお酒を飲んでもよくなったようだ。

「数字は終わったんですか」

「終わった、終わった。完璧よ」

 お金の計算でもしていたのだろうか。わたしは下げてきたばかりの食器とグラスをシンクに置き、「お疲れ様です」と言って香月さんの前にお水を置いた。アンは軽食を見繕うために、冷凍庫の方も見始めた。

「ピザでいいですね」

「あの小さいやつ? うん、いいよ」

 そういうと、レンジにピザを放り投げる。そしてすぐにリキュールのボトルをふたつ持ち、せっせとカクテルを作り始めた。

香月さんに差し出されたのはマティーニだった。

「それがお好きなんですか」

「うーん、でもいろいろ飲むよ」

 一口が大きい。そう多く入るわけではないアップスタイルのグラスは、すでに数ミリ減っている。シルバーのピックにオリーブが刺さり、グラスの中でゆっくり揺れて止まった。

「香月さんは、人に合わせますね。同じのを飲むようにしてるんです。人に入っていくおが上手いひとは自然とやってるあるあるです」

 思わず香月さんを見ると、「そんなんじゃないよ」と言いつつも、彼はニヤリとしながらお酒を嗜んでいた。

「ひとりで飲むときは、だいたいマティーニ始まりです。あとはテキトーに」

 アンは人差し指をくるくるっと回した。

「詳しいね。そう言えばわたしと会った日も、ひとりでマティーニを飲んでいた。グラスにオリーブが沈んでたから覚えてるの」

 夜には夜の、距離の縮め方があるのかもしれない。

 話を聞こうとしたが、香月さんのくたびれ加減を見てやめた。アンが出来上がったピザを木製のトースト皿で差し出すころには、マティーニのグラスは空になっていた。

「よく食事の前に飲みますね」

 わたしが冷ややかな目で香月さんを見つめる。マティーニはアルコール度数が高いカクテルだ。安易にすきっ腹に入れていいものではない。

「マティーニは、ちんたら飲むお酒じゃないんだよ」

 そう得意げに話す香月さんに、アンが「そこまで早くある必要はないですけどね」と突いた。


 お店には3人だけだ。わたしはシンクで洗い物、アンは冷蔵庫の在庫確認、香月さんはシルバーのピックを持ってまどろんでいる。フロアにはクラシックが流れ、ムーディーな雰囲気が際立った。この曲はなんだったっけ、と思ったそのとき、急にドアが開いた。数人の足音が聞こえる。篠田さんたちだ。

「空いてるな」

「ちょうどさっき掃けたとこ」

 篠田さんの言葉に、香月さんが答えた。

「ジントニック、ライムでふたつ。……翔子さんとユウはなににする?」

 カウンターの中にいるアンに、香月さんはドリンクを注文する。その横で、篠田さんがカウンター席に座った。遅れて翔子さんとユウちゃんがやってきて、次々に席につく。

「今日は甘いのがいいかな。おすすめで」

「俺はジンジャエール」

 アンは「かしこまりました」と微笑んで、カウンターでドリンクを作り始める。彼はチョコレートのリキュールを手にしながら、わたしにジンジャエールを小瓶からグラスに注ぐよう指示を出す。

 少しずつ物の位置も覚え、注ぐだけのドリンクは任されるようになった。氷に当てないようにそっと注いでいく。これは香月さんからの助言だ。炭酸をできるだけ残しておくために、グラスの壁に沿って静かに注いでいく。

炭酸の心地よい音を耳にしながら、ユウちゃんの前にジンジャエールを出すと、あとを追うように、アンもマドラーを上下させてかき混ぜたカクテルを翔子さんへ差し出した。

「モーツァルト・ミルクです」

「あら、久しぶりね」

 チョコ味のリキュールをミルクで割ったカクテルだ。翔子さんは満足げな表情で口を付ける。赤い口紅がグラスのふちをほんのり染めた。


「あれから随分増えたわね」

 翔子さんは、1/4ほどが写真で埋まりかけていたコルクボードに目をやった。

「相変わらずメッセージは少ないですよ」

 アンは、翔子さんの前ではどこか大人ぶっている。いや、もう十分いい大人なのだが、他の人にはない見得のようなものを感じていた。

ふふ、と笑う翔子さんは、写真を横目に、2枚から一向に増えないメッセージの色紙を見た。

「2枚目書いたら? ユウちゃん。何枚書いてもいいんでしょ? 思い出だもんね」

「何枚書いていただいても結構ですよ」

 ふたりの間で勝手に進む話に、ユウちゃんは露骨に嫌な顔を向けた。彼の顔に構うことなく、翔子さんは、ほらほら、とカウンターのイスから立たせる。半ば強引に持たされたペンを握り、ユウちゃんは不服な顔つきのまま、壁に立てかけられている大きなコルクボードの前に来た。

「なんか言えばいいのに」

 やってきたユウちゃんを見て、わたしはぼそりとつぶやいた。彼はぎっと鋭い目でこちらを睨んだ。しかし、すぐに新しく手に取った色紙の上でサインペンを走らせる。


――いちょうの木に括られたブランコ。


 また意味深なメッセージを残し、彼はカウンターの席に戻っていった。わたしは雑多に貼られた色紙を見て、また首をかしげるのだった。


コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?