客の出入りがひと段落した時間帯、香月さんは奥の部屋から出てきた。
「アン~、なんか作って~……」
ぺと、とカウンターに倒れ込む彼は、手ぶらだった。どうやら言っていた仕事が終わり、もうお酒を飲んでもよくなったようだ。
「数字は終わったんですか」
「終わった、終わった。完璧よ」
お金の計算でもしていたのだろうか。わたしは下げてきたばかりの食器とグラスをシンクに置き、「お疲れ様です」と言って香月さんの前にお水を置いた。アンは軽食を見繕うために、冷凍庫の方も見始めた。
「ピザでいいですね」
「あの小さいやつ? うん、いいよ」
そういうと、レンジにピザを放り投げる。そしてすぐにリキュールのボトルをふたつ持ち、せっせとカクテルを作り始めた。
香月さんに差し出されたのはマティーニだった。
「それがお好きなんですか」
「うーん、でもいろいろ飲むよ」
一口が大きい。そう多く入るわけではないアップスタイルのグラスは、すでに数ミリ減っている。シルバーのピックにオリーブが刺さり、グラスの中でゆっくり揺れて止まった。
「香月さんは、人に合わせますね。同じのを飲むようにしてるんです。人に入っていくおが上手いひとは自然とやってるあるあるです」
思わず香月さんを見ると、「そんなんじゃないよ」と言いつつも、彼はニヤリとしながらお酒を嗜んでいた。
「ひとりで飲むときは、だいたいマティーニ始まりです。あとはテキトーに」
アンは人差し指をくるくるっと回した。
「詳しいね。そう言えばわたしと会った日も、ひとりでマティーニを飲んでいた。グラスにオリーブが沈んでたから覚えてるの」
夜には夜の、距離の縮め方があるのかもしれない。
話を聞こうとしたが、香月さんのくたびれ加減を見てやめた。アンが出来上がったピザを木製のトースト皿で差し出すころには、マティーニのグラスは空になっていた。
「よく食事の前に飲みますね」
わたしが冷ややかな目で香月さんを見つめる。マティーニはアルコール度数が高いカクテルだ。安易にすきっ腹に入れていいものではない。
「マティーニは、ちんたら飲むお酒じゃないんだよ」
そう得意げに話す香月さんに、アンが「そこまで早くある必要はないですけどね」と突いた。
お店には3人だけだ。わたしはシンクで洗い物、アンは冷蔵庫の在庫確認、香月さんはシルバーのピックを持ってまどろんでいる。フロアにはクラシックが流れ、ムーディーな雰囲気が際立った。この曲はなんだったっけ、と思ったそのとき、急にドアが開いた。数人の足音が聞こえる。篠田さんたちだ。
「空いてるな」
「ちょうどさっき掃けたとこ」
篠田さんの言葉に、香月さんが答えた。
「ジントニック、ライムでふたつ。……翔子さんとユウはなににする?」
カウンターの中にいるアンに、香月さんはドリンクを注文する。その横で、篠田さんがカウンター席に座った。遅れて翔子さんとユウちゃんがやってきて、次々に席につく。
「今日は甘いのがいいかな。おすすめで」
「俺はジンジャエール」
アンは「かしこまりました」と微笑んで、カウンターでドリンクを作り始める。彼はチョコレートのリキュールを手にしながら、わたしにジンジャエールを小瓶からグラスに注ぐよう指示を出す。
少しずつ物の位置も覚え、注ぐだけのドリンクは任されるようになった。氷に当てないようにそっと注いでいく。これは香月さんからの助言だ。炭酸をできるだけ残しておくために、グラスの壁に沿って静かに注いでいく。
炭酸の心地よい音を耳にしながら、ユウちゃんの前にジンジャエールを出すと、あとを追うように、アンもマドラーを上下させてかき混ぜたカクテルを翔子さんへ差し出した。
「モーツァルト・ミルクです」
「あら、久しぶりね」
チョコ味のリキュールをミルクで割ったカクテルだ。翔子さんは満足げな表情で口を付ける。赤い口紅がグラスのふちをほんのり染めた。
「あれから随分増えたわね」
翔子さんは、1/4ほどが写真で埋まりかけていたコルクボードに目をやった。
「相変わらずメッセージは少ないですよ」
アンは、翔子さんの前ではどこか大人ぶっている。いや、もう十分いい大人なのだが、他の人にはない見得のようなものを感じていた。
ふふ、と笑う翔子さんは、写真を横目に、2枚から一向に増えないメッセージの色紙を見た。
「2枚目書いたら? ユウちゃん。何枚書いてもいいんでしょ? 思い出だもんね」
「何枚書いていただいても結構ですよ」
ふたりの間で勝手に進む話に、ユウちゃんは露骨に嫌な顔を向けた。彼の顔に構うことなく、翔子さんは、ほらほら、とカウンターのイスから立たせる。半ば強引に持たされたペンを握り、ユウちゃんは不服な顔つきのまま、壁に立てかけられている大きなコルクボードの前に来た。
「なんか言えばいいのに」
やってきたユウちゃんを見て、わたしはぼそりとつぶやいた。彼はぎっと鋭い目でこちらを睨んだ。しかし、すぐに新しく手に取った色紙の上でサインペンを走らせる。
――いちょうの木に括られたブランコ。
また意味深なメッセージを残し、彼はカウンターの席に戻っていった。わたしは雑多に貼られた色紙を見て、また首をかしげるのだった。