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第39話:自己開示の難解

 看護師であることを話したこともないし、もちろん針が使えなくなってこんなところでバイトしているなんて言ったことはない。一方で、芦谷さんは広島の話をリリユリのふたりにしていた。あんなに愛想の悪い人が、自分のことを話していた。

「わたしは、聞くに徹することばかりかもしれません。わたしのことなんて興味ないでしょうし、それよりはお話を聞いて、少しでも気が晴れたらいいなと」

「素晴らしいですね。それもいいと思います。ただ、集客ということはある程度リピーターもいた方がいいでしょうから、自己開示で相手の興味を引いたり、記憶に残ったりすると、より次につながる気がします」

 洗い終わったコーヒーカップ、ソーサー、スプーンを水切りかごの中へ入れていく。なるほど、と納得しつつも、頭の片隅に心配性の自分がいた。「でも自分のことなんて」とまた言いかけたが、わたしはその言葉を引っ込めた。

「なんでもあけすけに話すと言うことではありません。自分はどんな人間なのかは、生まれや育ちを伝えることではなく、自分のを話すことです」

彼は、穏やかな口調の中にも太い芯がある。そうして形のないものを語る姿は、自然と信頼に足ると思わせる。

「人生は選択の繰り返しです。好きなもの、苦手なもの、昨日食べたご飯だって、なんでもです」

 構えて話を聞くわたしに、眞鍋院長は柔らかい表情を見せる。


「ではそろそろ診療の準備に戻ります。ダブルワークで身体を壊さないようにしてくださいね。調子のいいときに、針もまた一緒に練習しましょう。声をかけてください」

 そう言うと、眞鍋院長はまた診察室に戻っていった。



 訪問看護での勤務を終え、一足先にバーへ着く。着替えて手を洗っていると、香月さんとアンが出勤してきた。

「あれ? 香月さん、今日はお休みじゃなかったですか」

 挨拶もそこそこに、わたしはこちらに向かってくる香月さんに訊ねた。

「やることがあってね。あとはもう客です、今日は」

 飲みながらやるぞー! と肩を回して奥の部屋に消える。アンも着替えを済ませて出てくると、さっそく開店準備に取りかかった。

「大変なんですね」

「さあ? いろいろあるんじゃないですかね、知りませんけど」

 アンは冷蔵庫を開け、いつものようにお通しの小鉢をどうするか考えていた。

「あ、瀬野さんは工作してていいですよ」

 耳慣れないワードに思わず聞き返すと、先日のイベントで撮った写真たちを張り付け、店内をデコレーションしてくれということらしい。

「こっちは俺一人でできるので。あと、ボード下の小箱に、何枚か写真増えてました。常連のおじさんですけど、あと貼っておいてくれって入れてったんです。自分でやればいいのに」

 彼が言う小箱をのぞくと、確かにインスタントカメラで撮った写真が2枚入っていた。

「これどっちも飲み物だけですよ」

「当り前じゃないですか。こんな女の子ばかりの写真の中におじさん映ったって仕方ないでしょ」

 当たり前だと言わんばかりに、彼はきっぱり言い放った。

「そこはちょっと上手くいってさあ……」

 茶色のお酒はブランデーだろうか。ロックグラスに入った大き目の氷が、半分ほど露出している。インスタントカメラの解像度ではそれすらよくわからない。おじさんの私物であろう腕時計と、コースターの上に佇むグラスだけが映っていた。


 わたしはバランスを見ながら写真をコルクボードに貼り付けていく。リリユリのふたりは、ささやかにコーナーを作った。そこだけが異質なほどエンターテインメントの輝きを放つ。

 外の看板に貼る分は、いろいろ考えた末にデータ化して印刷しておいたものを貼ることにした。インスタントカメラは光や高温に弱く、外に長時間出すには向いていなかった。わたしは紙に印刷した写真をクリアケースに入れ、雨濡れにも注意した状態で外に張り出した。

「もう写真でもなんでもないっすね」

アンは、螺旋階段を降りて再び店内に戻ってきたわたしを笑った。


「バーは結構話す? お客さんと」

わたしはコルクボードを装飾しながら彼に聞いた。

「人によりますね。バーは、しゃべりに来るひとと、飲みに来るひとがいるんですよ」

 わたしは、へえ、と相槌を打ちながらチョキチョキと色紙を切る。

「しゃべりに来る人とはよく話します、篠田さんみたいな。飲みに来る人は、えーっと……この前、香月さんが仕事後にカクテルをご馳走した日があるじゃないですか。あの日帰り際に来た男性わかります? 清家さんっていうんですけど。あのひとはしゃべりません。飲んで、静かに過ごして帰る」

 アンは野菜の皮をむいている。平たくピーラーでむいたきんぴらごぼうは、思いのほか簡単でよくバーのお通しになってる。

「日中は会いませんからね、バーの人間とは。しゃべりにくる人は、自分のことばかりですよ」

 表情は動かない。アンはうんざりしているわけでもなく、かといって親身になる気もないような不思議な顔をしていた。

「アンは、自分のことを話す機会はないの?」

「俺はほぼないです。でも香月さんは違うかも。よく人生相談されてたりするから。だからよく自分の昔話をしていますよ。若いころの」

「そっかぁ。また昼と夜じゃコミュニケーションの取り方が違うのかもなあ」

 ぼんやりと眞鍋院長の顔を思い出す。

「なんかあったんですか」

「いや、なんでもないの」

 この場では合わないのかもしれない。水にさらされた野菜たちは、もう鍋に入った。


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