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第38話:バックグラウンド

「針に対するトラウマを抱えたにもかかわらず、その後も針に触れることができるのは、瀬野さん自身がさほど問題として捉えていないからかもしれないですね」

「断定はしないんですね」

「しませんよ。できないんです。傾向はあっても、どんな可能性も考えられるのが精神科ですから。ある人には当てはまらないことが、別の人の解になるんです」

 気にせずどうぞ、と言って、眞鍋院長はプリンを食べ始めた。スプーンがすっとはいり、面を分ける。わたしも後を追うように目の前に置かれたプリンに手を付ける。

 院長の話は理解できるものの、雲をつかむような話だ。実体がないような不安感はいつもわたしに付きまとう。


「今度聞かれたらそう答えようと思います」

 プリンを多めにすくい、頬張った。

「誰にですか」

 眞鍋院長は久しぶりにこちらを見た。わたしは準備していた二口目をそっとプリンカップに戻して答えた。

「バイト先の店長です。精神科での勤務で、心が読める修行でもしているんじゃないかと思われていて」

 わたしは香月さんの話をした。バー&カフェでバイトするようになったきっかけや、香月さんがお客さん集めに苦戦している話などをした。

「あはは、それは面白い方ですね」

「そんなわけないって言ったんですけど。飲食も対人なので大変みたいで」

 井戸端会議のような話し方をするわたしに、院長も「大変な業界ですよね」などと相槌を打つので、わたしは面白くなって吹き出した。それを見て、院長はまた穏やかに微笑んだ。

「精神科にいてもう十五年以上になりますけど、まだわかりません。家庭環境もかなり形も変わりましたし、個人が持つバックグラウンドも多様化しています。違う国の方を見る機会もかなり増えました。トレンド、と言ったらよくないですが、よく診る疾患も変化してきています」

「精神科は、なにかにつけてまず背景を見ますよね」

「そうですね。結構話を紐解いていくと、不調が生じた原因のひとつになっていることは多いです」

 自分の場合は、あの家はもう関係ないように感じる。家を出て長いし、もう連絡と言う連絡も取っていない。本当に、どうしようもなく避けられないときだけだ。

「わたしの家は表立って仲が悪いわけではなかったですけど、穏やかな家庭でもありませんでした。それがなにか悪さしていると言われればそんな気もしてくるし、気のせいと言われれば受け入れてしまう程度です」

 眞鍋院長は「わかりますよ」と言ってから、コーヒーをすする。空になったプリンカップは、スプーンが入れられた重みで自立できず倒れた。


「瀬野さんのよくないところ、言ってませんでしたね」

「そうでした。でも、薄々わかっています。“そのままじゃ治らないよ”ってことですよね」

 いい温度になった紅茶に手を付ける。砂糖を入れればよかったと思ったが、面倒になってそのまま一息に飲む。

「そこまでは言いませんよ。でもこれは、〈問題を自覚する〉ということが難しい方の特徴でもありますが」

 ほとんど食べ終わったテーブルは、トレイの上にごみやカップがまとめられ、徐々にきれいになっていく。

「一般には治療が遅れて、治りが悪くなることがあります。下手にくっついた骨のようなぎこちなさは、一見、なんの影響も及ぼしていないようで、歩きづらさや変にくっついた古傷として痛みを生じさせるでしょう。そうしてじわじわ生活をむしばむことがあります」

 それは、ひとつの可能性を示唆するものだったが、暗に治療をすすめていた。

「そう。放っているんです。でもこうやってたまに暴露療法のようなことをしていこうかと思ってはいるんです」

 わたしは未使用のまま捨てられた針が入っている針捨てボックスに視線をやった。

暴露療法とは、言ってしまえば何度もに向き合わせることで、不安や恐怖に慣れていくという訓練だ。わたしの場合は定期的に針刺しする場面を得ることで、症状の改善を試みる。

「少しくらいでしたら、ご協力しますよ。今日みたいに、たまに刺す練習台になりましょう。ただ、程度によってはちゃんとしたところの受診をすすめるかもしれません」

「わかっています。針もすみません」

わたしは、ありがとうございます、と言って深々頭を下げた。



トレイを持ち、別室の流しへ行く。眞鍋院長は律儀にも後ろをついてきた。

「カップなどはわたしが洗いますので。大丈夫ですよ」

わたしの言葉に彼は、ああ、とたじろいだ。さも自分で片づける以外の選択肢が頭になかったかのようにおどおどする。

「ではお願いしようと思います」

 そう言ってくるりと背を見せ、部屋を出ようとした院長だったが、なにを思ったのかまたこちらを向いた。

「お片付けをお願いするお礼に、集客のヒントを。それは、“自己開示”です」

「どんなお店かわかるように、ということですよね」

 わたしは手元を動かしながら院長の話を聞く。二人分の食器を洗うのはさほど時間がかからなかった。

「そうですね。ひとはよくわからない相手には取っつきづらいものですから」

「わたしもそれを考えて、働き始めてすぐに店員の紹介を掲示したり、SNSを更新してお店のことをわかってもらおうとしたりしたんです。イベントも相まって、お客さんの入りがいい日もありましたが、全体ではまだまだで……まだ努力中という感じです」

 わたしは、これまでにしてきた新しい取り組みを話した。お客さんに来てもらうにはどうしたらいいか、ここ数か月はそればかり考えていた。

「いいと思いますよ。まずは呼び込みも重要です。そして、いらしたお客さんとのお話はどうですか」

 そう言って、眞鍋院長は顎を触りながらこちらを見た。

「お話ですか?」

「ええ。お店に来ていただいたあと、瀬野さんはどんなお話をされているのかなと思いまして」

 言葉を受けこれまでを振り返ると、お客さんの話を聞くことはあれど、自分の話をしたことはなかった。


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