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第37話:一本の針

「眞鍋院長、今いいですか」

 わたしは検査室で駆血帯と留置針を1本取り、診察室のドアをノックする。眞鍋院長はだいたい診察室のデスクに座っている。わたしの出勤時間帯は、ちょうど昼休みだった。

「いいですよ。どうしました」

 ドア向こうの声を確認し、わたしはゆっくりとドアを開けて、座っていた院長に未開封の留置針を差し出した。

「サーフロ1本もらってもいいですか。針刺し練習させていただきたいんです。もし大丈夫でしたら、……眞鍋院長の腕で」

 わたしの急な申し出に少々驚いた様子だったが、

「全然大丈夫ですよ。使ってください」

 そう言うと、眞鍋院長は右腕の白衣とシャツを捲り、「ありました。大丈夫そうです」と言って腕を前に出した。前腕の正中皮静脈が駆血帯を巻かずともはっきり見えている。わたしは上腕に駆血帯をきつく巻き、アルコール綿や留置針のケースを軽く開けて穿刺部位を吟味した。

「持つのはできるんですね」

 眞鍋院長は、針を持ってきたわたしを見てそう言った。

「はい、なぜか。なので物品準備くらいならまったく問題なくて。……あ、眞鍋院長はアルコール綿大丈夫ですか」

「そうなんですね。アルコールは問題ありませんよ」

使ってください、という院長の言葉を待って、わたしは皮膚をアルコール綿で素早く拭いた。鼻をツンとした匂いがかすめる。いつかの看護師長のような男らしく浮き出た血管ではなかったが、うっすら見えるそれは採血には十分だった。

「じゃあ、失礼します」

 わたしは深呼吸を一回だけすると、針をケースから取り出し、右手の親指と人差し指でつまんだ。中指は、外筒を押し進められるよう、いつでも使えるように待機してある。

大丈夫、何も問題ない。


「瀬野さん?」


 眞鍋院長がわたしを呼ぶ声がする。ひんやりとした肌は、湿っていた。手は進んでいかない。先ほど狙いを定めて拭いておいたアルコールは、もうとっくに揮発していた。早く、刺さないと。


「瀬野さん」


 声がやや大きくなった。それがわたしの鼓膜を揺らしていることは理解していた。うんとかすんとか、何か言わないと。上司を無視するなど許されない。


「瀬野さん……」



何度目かの名前に、わたしはようやく「…はい」と小さく返事をした。

「大丈夫ですか」

「……大丈夫です」

 やっと動くようになった唇は、脊髄反射でのオウム返しをしている。現状を何も理解できていないからこそできる。

「少し休みましょう。甘いものとかどうですか。飲み物は、……紅茶派でしたよね」

 眞鍋院長は、席を立って部屋を出て行った。

 わたしは綺麗なままの針を見つめる。また刺せなかった。

針は、袋から一度出してしまえば捨てるしかない。わたしは申し訳ない気持ちで針を捨てた。


小さいプリンとスプーンが二人分、そして紅茶とコーヒーがひとつずつ乗せられたトレイを持ち、眞鍋院長は数分のうちに戻ってきた。プリンはいつも冷蔵庫の奥に積んでいる院長のお気に入りだった。

目の前のデスクの左端に、プリンと飲み物が入ったカップが並べられていく。

「疲れましたよね。横になっていただいてもいいですけど、どうでしょう」

 コーヒーカップを並べ終えた眞鍋院長が、診察台を差して言った。「こんなところよりは、向こうの部屋のカウチがいいですね」と独り言をつぶやく。

「いえ、大丈夫です。いつもすぐ元通りなんです。おかしいですよね。倒れたりもしない、針に触れることだってできるのに、刺せないだなんて」

 嘲笑は苦しい。眞鍋院長の目を余計に気にしている自分がまたばかばかしい。

「風邪でも拗らせたら大変です。さっさと内科にでも行って、飲み薬をもらう人が多いのではないでしょうか。瀬野さんはどうですか」

「眞鍋院長のお話はもっともです。わたしも何度か受診しようと思ったんですけど……」

「精神科はやはり抵抗がありますか」

 院長は小さいプリンの蓋に手を書ける。わざとこちらを見ていない気がした。転職活動の面接の日と同じだ。

「そういうわけでもないんですけど……」

 嘘であり、嘘でない。まだごちゃついている。「偏見」と呼べないほどの、小さな薄い壁がまだそこにはあった。「区別」と呼んでは都合がよすぎる気もしている。精神科にかかる人というよりは疾患の症状に、病院時代の辟易とした患者対応を思い出してしまう。しかしなによりは――

「実感がない」

「え?」

「大ごとと思っていない、そんな印象を受けます」

 まるで鈍感な人間のように聞こえる指摘に、自分が持っていた自己イメージと解離したものを感じる。頭を傾げ、うなだれる。しかし院長は話を続けた。

「希望の職場を退くことになり、以前に比べて金銭状況も苦しいものがあるでしょう。複数アルバイトの掛け持ちもされていると聞きました。いろんなことを一斉に初めて、疲労も溜まる時期ではないでしょうか」

「まあ……はい、そうかもしれません」

「でも、あなたは困っていない」

 珍しく強い語気に、わたしの肩はびくりと上がる。

「生活がすっかり変わってしまっても、あなたはどこか問題に思っていない。そこがいいところでもあり、よくないところでもあるんでしょうね」

「と言いますと……」

 わたしは、眞鍋院長の推測にやや姿勢を前傾させた。

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