目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報
第36話:カシスオレンジ

 わたしも飲みたいと言うと、「ほら、これ女の人向けなんですってば」と彼はむくれた。

「いや、明日オフなんでしょ? じゃあカシスオレンジ一択だね。好きなもの飲んで寝な。ユウは甘党でしょ。俺は知ってんだ」

 親戚のおじさんのような顔をして、香月さんは彼を力説する。そしてわたしに「ちょっと待ってね」と言うと、再びオレンジを切り始めた。


「瀬野ちゃんは、仕事終わりは強いの行きたい人だよね」

 そう言って出してきたグラスは、横のカシスオレンジと同じ色をしている。わたしは首を少々かしげながら、グラスを受け取る。

「あたりです。夜勤明けとか、逆にどんどん行きたい」

 すぐ近くから、やばあ、と呆れた声がしたが、聞こえないふりをしてみた。それどころか、わざと香月さんに、「よくわかりましたね」と自分から絡みに行く。手元を冷やすキンキンのグラスは、何度見てもアルコールに弱い人がよく飲むカクテルに見えてならない。

「まあ、これはただの勘。瀬野ちゃんと飲んだの初日一回だけだから。お酒の好みはわからないけど、一緒に働いた感じから、ね」

 香月さんはしたり顔でお通しの準備をする。小鉢がふたつ出ていたので、わたしはそれとなく断る。退勤後の休憩のはずが、随分長居をしてしまった。

「なーんだ。バーテンダーの特殊能力をぜひ聞いてみたかったのに」

 あながち間違っていないのが憎たらしい。香月さんは、長年カウンターに立っているせいか、感覚的に人を見る力が強かった。

 看護師にも似たような才を持つ人がたまにいる。人と接した数なのか、言語化できない部分で無意識的に人を観察している結果なのかは分からない。ただ、「なんかおかしい」という違和感をその看護師が言い始めると、その晩には患者は急変している。



「あれ? やっぱりこれ、カシスオレンジですよね」

「うん。でもウォッカが入ってる。少しだけね。そうすることで、味はほぼそのままにアルコール度数だけ上がってる。後味が少し違うの分かる?」

 透明なボトルに海外のラベルが貼られている瓶を、香月さんはひょいと掲げて見せた。確かにいつもと後味が異なる。だが味が変わらないのは嬉しい。カシスオレンジを飲みたかったのは、香月さんが目の前で絞るオレンジに惹かれていた。


 すると、それを見ていたユウちゃんがわたしのグラスを見て言った。

「一口いいですか」

 意外な言葉に、ああ、うん、とバタつきながら返事をする。わたしは自分のグラスを差し出すと、何の抵抗もなく彼は味見をした。

「うわあ、やばい……」

 彼は途端に黙ってしまった。それから急に口を開いては、舌をベーっと出す。そして水を声もなく求めるのだった。

 香月さんは声を出して笑った。ミネラルウォーターがグラスに注がれるわずかな時間すら惜しいといった表情で、カウンター越しに香月さんを急かす。

「そんなに入ってないけど、まだユウには早いって。っていうか、お前酒弱いだろ。いい加減バレてるぞ」

 水を受けとると、彼はすぐさま半分ほどを口から流し込んだ。

 わたしにはほとんどジュースのように思えていたが、彼にとってはこれすらきつい。体質が合わないんじゃないかと心配になった。

 そんな心配もつゆ知らず、香月さんは彼に「ジンジャエールばっか飲んでんだから」と言って揶揄う。それを睨む彼の目つきは、まるで懐かない野良猫だ。話をロクに聞かず、痛い目にあっては他人を恨む、可愛らしい生物だった。



 二度目のバンブーチャイムは、単身のお客さんだった。サラリーマンの男性客に、香月さんは話をしに行った。どうやら顔なじみの方のようだ。

「わたし帰りますよ」

 カウンターを開けようと席を立つ。二杯目のお代をレジに入れ、「いいのに」と言う香月さんに挨拶をして店を出る。ユウちゃんはそっと右手を上げて手を振っていた。


 すっかり暗くなった外の道を歩き、駅へ向かう。足取りはいつかを思い出すほど軽かった。

 あの日、クリニックの面接を受けた帰りに、京訛りのバーテンダーがいる店で香月さんと出会った。そのお陰で、際のところでわたしは看護師を続けられている。

 クリニックからフルタイムを断られたとき、諦めてしまっていたらどうなっていたのだろうと時折考える。何もしなくとも生活費はかかる。家賃、食費、日用品、ちょっぴりの楽しみにかかる費用、……生活の心配をしなくて済んだのも、彼のお陰だ。


 今では精神科での勤務も徐々に慣れ、今では伊倉さんが受け持っている利用者さんにも徐々に受け入れられてきた。玄関でお断りをされたのは、赤城さん以外にもいたし、精神科独特の雰囲気やお宅に入っていくときのお作法に悩むことも多かった。それも、数か月経つと少しずつ理解し、受け入れられるようになる。

 ずっと同じ状況ではない。留まり続けることはできないと知ることは、自分にとっての希望でもあった。


 自分の生活が整うと、不思議なことに、久しぶりに針を触ってみようかと思えた。クリニックであれば、練習として1本くらいはくれるだろう。

 針捨てボックスはどこにあったかな、とクリニックの検査室を思い浮かべる。


 夏がすぐそこまで迫っていた。少しじめつく額の髪を耳にかけ直し、わたしは改札を越えてゆく。


[第一章 おわり]


コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?