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第35話:バーテンダーとの共通点

 さわやかな甘さが喉を過ぎる。芦谷さんはきっかり定時に帰っていった。

 そういえば、あれから一度も揉めていない。芦谷さんはこれまで通り、愛想という言葉を一切知らない様子だし、わたしもへこへこと媚びへつらっているわけではいない。互いに自分のキャラクターを出しつつ、相手が存在することを良しとしている。


「バーテンダーってやっぱり話聞いてるんですね。お客さんの話。あんな『何も聞いてませんよ』みたいな顔してグラス拭いてたりするのに」

 考えてみると当たり前の話だ。バーは客との距離が近い。嫌でも耳に入ってしまうだろう。

「そりゃね。聞こえちゃうし。でもそれはそっちも同じなんじゃないの」

「そうですね。看護師は全部が何かに繋がる情報と捉える性質があるので。職業病かも」

 香月さんはきっと、「今朝何食べた?」程度のことをイメージしているに違いない。まさか親戚や通所先の人間関係までうっすら把握してるなんてことを言ったら、引いてしまうんじゃないだろうか。わたしは静かにまたモヒートのグラスを手に取った。

 香月さんは自身のグラスを飲み干すと、シンクへ置いた。氷はまだ1/3ほど残っている。

「接客も通ずるところがあるよね。だから声かけたんだよ。『精神科に興味ある』って言ったじゃん」

 香月さんと初めて会った日、確かに彼は精神科勤務を面白がっていた。「気持ちが分かったりするの?」としきりに聞いてきたことを思い出す。

「今ではわたしが、バーテンダーという仕事に興味が出てきました。こうして飲み物をお客さんに合うようにアレンジしてお出しするなんて、なんだか素敵。特別な一杯って感じ」

 香月さんはフッと笑みを浮かべると、満足げに仕事に戻った。


 そろそろアンが出勤してくる時間だ。見つかれば、「早く帰ってください」と追い出される。わたしは帰り支度をして、自分のバッグを持った。

――カラン、コロン。

 お店のドアについているバンブーチャイムが響く。だらだら飲んでいるところに、いつもより早くアンが出勤してきてしまったのかと思い振り返ると、そこに立っていたのは篠田さんとよく飲みに来る“ユウちゃん”だった。

「ああ、ユウちゃん。いらっしゃい」

 わたしの出迎える声に、顔を上げた香月さんが驚いたような顔を見せる。

「ユウか。早いな。今日はひとりか?」

「このあとすぐに篠田さんたちが来ます。それほど遅くならないと思います」

「おっけー。じゃあテキトーに座ってて。何飲む?」

 わたしはカウンターの席を端にずれた。彼はそのひとつ隣の席に腰を下ろした。

「今日はアルコールでもいい日なので。香月さんのおすすめください」

 そう言って、彼は手持ちのバッグを背もたれに掛けた。

「早速腕の見せ所ですね」

「やめてよ、瀬野ちゃん。俺はプレッシャーに弱いタイプなの」

 香月さんは、へらへらと笑いながら会話を続ける。しかし手元だけは、きっちりと目的を持って動いていた。ジガーカップやボトルを扱うスマートな指先は、惚れ惚れと見入ってしまう。

「ユウもこっちに来て5年か。もうすっかり大人だな」

「お酒も飲めますしね」

 香月さんはオレンジのスライスを1枚作ると、残りをスクイーザーの上に置いた。繊維を巻き込まないように果肉を絞る。わたしが全体重をかけてぎりぎりと絞り出したくなるところで、香月さんはほとんど果肉が残っているんじゃないかと思うほど繊細に扱っていた。氷を入れたグラスに、カシスリキュールをジガーカップで測り入れる。頭が重たくなったそれは自然とグラスへ向いた。

 淡々と動く。機械的というのか、洗練されているというのか、この一挙手一投足に無駄のない動きが、かつての自分と重なる。これが好きだった。

 ふと、針刺しができなかった大学病院の退職の日を思い出して、もうあるはずのない痛みを胸に感じる。師長の生きのいい血管が想起された。新人でも取れるであろう、血管の見えやすさ、膨らみ、――何を怯えているのか。それに、目の前の血管を刺しても、そこで反射を起こすのは自分じゃない。他者との境界が曖昧で、自分の感じた苦しみを無意識に投影しては、手をすくませている。

 その愚かさは当時から理解していた。人体に針を刺す行為はどうやってもゼロリスクにはなり得ないが、迷走神経反射自体は毎回のようにあることではない。運が悪かった。それをさらに拗らせた。それが自分だった。

 あれからもう1年半になる。少しは曖昧な境界の色を取り戻せただろうか。トラウマはかすんだ。思い出そうとすれば簡単に顔を出してくるが、この状態の主導権を握れるようになればいいと自分に言い聞かせる。ばかになった海馬にいつまでも手綱を握られ続けるなんてまっぴらごめんだ。


 香月さんは、先ほど絞ったオレンジをグラスに流しいれた。下から上に持ち上げるように、マドラーで全体を軽く混ぜる。そして仕上げに氷と氷の間に薄く輪切りにしたオレンジを挟み込み、最後にミントを添える。

「はいよ。カシスオレンジ」

 赤紫色に染まるグラスを見て、彼は不服そうな顔をした。

「俺もう23なんですけど」

「原点回帰。甘いの好きでしょ」

 彼は、出てきたカクテルを受けとると、むすっとした唇を解いてグラスに触れた。


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