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第32話:触れる

 急かされるように、赤城さんは段ボールからすべての野菜を取り出してきた。それを伊倉さんは洗い、彼に冷蔵庫の横の棚にあったキッチンペーパーで拭くように指示を出す。そうして大きな平皿2枚を一杯にすると、今度は流しの下から包丁を取り出し、伊倉さんはズッキーニとアスパラガスをそれぞれ切ってゆく。ズッキーニは輪切り、アスパラガスは下半分の皮を剥いてから4センチほどに小さくする。それぞれ何本か切ったところで、赤城さんへ包丁を渡した。

「こんな感じで。アスパラの皮は私の方で全部剥きましたので、それぞれ切っていくだけです。わたし保存袋に入れていきますから。ゆっくりでいいですよ」

 この家のキッチンで、何がどこに入っているのかを分っていた。伊倉さんは右端の上の棚を開けると、箱に入った保存袋を4枚ほど引き抜いた。

 包丁を持たされた赤城さんは慎重だった。慎重すぎて、ズッキーニ1本を切り終えるまでにかなりの時間を要する。それでも、伊倉さんは赤城さんが終わるのをじっと待つ。

「ズッキーニは、オリーブオイルと塩で炒めてしまえば、すぐ食べられますよ。癖も少ないです。アスパラガスは、食べる分だけレンジでチンして、ベーコンなどのお肉と一緒に炒めてください。チンしたあとにマヨネーズで食べてもおいしいです」

 書いておきますね、と言って、伊倉さんは訪問バッグからメモ帳を取り出す。終始、言葉数は少ない赤城さんだったが、彼女の話に耳を傾け、自ら包丁を握る。


 訪問後、赤城さんの家から遠くなったところで、わたしは伊倉さんに人目を忍ぶように言った。

「赤城さん、意外と料理に前向きだったんですね」

 仕方なくやってきたのかと思いました、と話すと、伊倉さんは眉を下げる。

「そうそう。切る、焼く、くらいならできるの。調味料をかけすぎるとかもないし。意外と本人は作業自体が嫌いじゃないんだよね、きっと」

 そう言うと、彼女はずれた訪問バッグの持ち手を肩にかけ直した。

「でも、あのまま伊倉さんが全部切っちゃうのかと思ってました。訪問時間も後半ぎりぎりでしたし」

 食事の準備は看護師の仕事ではない。1回の訪問時間は決まっている。入室し、バイタルを測り、前回の訪問後からの体調の変化や、食事、排泄、休息状況などを聴取する。赤城さんの幻聴や妄想の症状は、ここ最近ずっと聞かれていなかった。多少の浮き沈みはあるものの、精神状態はおおむね良好だった。

「触れると愛着が湧くのよ。ほら、自分で作らせると、嫌いな食べ物でも『食べてみよう』って思う子どもが増えるじゃない? それと一緒。いつも食べない野菜だと言って触ってなかったのなら、食べればいいの。どれも下ごしらえが簡単な野菜でよかったわ。……それに、自分で手をかけたものはおいしくなるからね!」

 そう言って、伊倉さんは無邪気に笑った。料理は、あれは一種のワークのようなものだったらしい。一番初めに立ちはだかっている障壁を、ともに超える。


 体調を確認しながら、赤城さんができること、続けられることを模索する。精神科の仕事は、幅広い解釈で利用者さんを支えることができる。そのことに気づくと、ちょっぴりこの仕事を好きになれる気がした。



 バーの冷凍庫を開けると、中には数日前に湯がいた金糸瓜がラップを巻かれて保存されていた。アンが湯がいた一番初めの金糸瓜だ。

「むちゃくちゃにうまいわけでもないんだもんね」

「メインにはならないですけど、小鉢なら、まあ。若い子に受けるかは微妙なところです」

 ラップで角が丸い長方形型に包まれた金糸瓜の果肉を見て、香月さんとアンは頭を悩ませる。どうにかいいところを見つけようとするも、なかなかハードルは高い。

 そこに、先ほどの訪問の記憶が顔を出す。

「そうだ! 金糸瓜を皮つきのまま細くスライスして、自分でばらしてもらいましょうよ! それぞれに冷水のなかで作業してもらったら、あのふわっと果肉が麺みたいに広がる感じも体感できますし」

 ひらめきの勢いのまま、わたしは人差し指を天上に向けていた。

 企画としては、まず芦谷さんに、スライスした金糸瓜を湯がいてもらう。果肉がばらけないように注意しながら、あらかじめ配っておいた水を張った小さいボウルに入れる。火がしっかり通った金糸瓜は、あとはほぐすだけだ。参加者自身に水の中で箸を使いほぐしてもらう。このニッチな体験に興味を持つ子たちは、この果肉が麺のようにばらけていくところに興味があるのだ。そこを十分に体験させ、その後は和え物にした金糸瓜を食べて終了にする。あっさりとした味でも、これまで自ら触って楽しんだ物だ。きっと邪険にはしないはずだ。

「随分大がかりですね」

「愛着ですよ、愛着!」

 アイディアの説明に首を傾げたアンだったが、そのあと彼は段ボールから金糸瓜をひとつ取り出し、輪切りにしたときのサイズを目算で測り始めた。金糸瓜を戻すと、すぐにカウンターの奥の棚を開け、「小さいボウル、どれくらいあるかな……」などとぼやきながら、普段見ない奥の方まで探す。

「ちょっとした体験はいいね。思い出にもなるし。写真も撮れそう。昼は瀬野ちゃんに任せるよ」

「ありがとうございます」

 香月さんのGOサインが出る。

「芦谷さんともよろしく頼むよ」

「もう大丈夫ですって。……初日はご迷惑をおかけしました」

 にやりと歯を見せる香月さんに、わたしは苦笑を返した。


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