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第31話:段ボールの中身

 ふと、わたしは先週の赤城さんの訪問を思い出した。


「洋二さーん、こんにちはー!」

 いつものように、伊倉さんの声がこの古びたアパートの外廊下に響く。このアパートでは誰ともすれ違ったことがない。おそらくどこの部屋も人が住んではいるものの、共用の廊下の常時付きっぱなしの電灯が薄暗く不気味に灯るだけだった。そんな場所で、伊倉さんの明るさは異様だ。ただ声が大きいとは違う、まるで子ども番組の歌のお姉さんのような誰も疑わない善人さをにじませて、今日もインターホンを押す。

「はい」

 赤城さんがよれたシャツの裾を一部黒いズボンに忍ばせ、玄関先に立っていた。

「こんにちは。お邪魔します」

 わたしも伊倉さんの挨拶に続く。赤城さんの警戒心は、徐々に減ってきたものの、この玄関口のやりとりのときはいまだに目つきが鋭い。

「今日は晴れましたね」

 当たり障りない話から、伊倉さんは今日の会話の脂乗りを調べる。通所先の話や趣味の話が出れば、今日は話したい日、天気の話にも相槌をにするときは、大体機嫌がイマイチな日だ。

「ああ、はい」

 赤城さんは、視線をよそにやりながら、伊倉さんに返事をする。

「今日はご飯……食べてなさそうですね、洋二さん」

 伊倉さんは歯を見せずにっこりと微笑んだ。

「あー……はい。面倒で」

 時折、彼は食事をスキップする。それは人とトラブルを起こしたときだったり、病状が安定しない日だったり、そして単純になにをするにも億劫な日だったりと多岐に渡る。

 彼に近寄り、「なにかありました?」と声のトーンを落とす伊倉さんだったが、帰ってきた答えは「食べるものがなかった」だった。

「あれ? 宅食のお弁当は?」

「やめました」

 言葉を失う伊倉さんの横で、わたしが入れ替わるように質問をする。

「ご飯、飽きちゃいました? 結構種類はあったような気はしますが……」

 宅食のお弁当は、和食・洋食を問わずいくつも準備されており、そのどれもが管理栄養士により栄養計算されている。下手に自炊するより食事バランスがいいと言われることもあった。カロリーや塩分・糖分などの制限・注意がある人にとっては、自身で注意せずに適切な食事を取ることが可能となるメリットはとても大きい。また、調理自体が困難な人にとってもありがたいサービスだ。食材を買いに行けない、レシピを見て必要な食材を選べない、包丁を持てない、……など、「食事の準備」の過程において悩みを抱えている人々が多く利用している。

 わたしは、どうして赤城さんが宅食をやめてしまったのかを考えていると、彼は表情を一切変えず、けろっとした顔で返答をくれた。


「親戚から野菜が送られてきて。ちょっとだけいらないって言ってみたんです」


 彼は、宅食のコースを半月お休みしていただけだった。しかし、玄関の脇に置かれたままの段ボールはうっすら開かれた扉から中にぎっしり荷物が入っていることが確認できる。

「わあ、野菜まるまんま!」

 段ボールに近寄り、赤城さんの同意を得たうえで開きかけの段ボールを開ける。なかには、新聞紙を敷いたポリ袋に入れられた大量のズッキーニとアスパラガス、わかめスープの素の大袋パック、コーンスープの素、瓶のリンゴジュース、そしてポテトチップスなどのお菓子が入っていた。

「なんだか夏が来たようですね」

 フローリングに膝をついて、伊倉さんは重たいお腹を押さえながら段ボールを覗き込む。しかし、晴れやかな表情の奥は硬い。わたしは、「お弁当、再開したようがいいような気がしますね」と小声でささやく。

「まあ、簡単なものなら作れはするんだけどね……」

「でもこれ、先週から置いたまんまです。これじゃあ野菜が先に腐っちゃいますよ」

 赤城さんは目玉焼きや冷凍食品のレンチンなどはできる人だった。しかし、どことなく判断力が怪しいときがあった。生まれつき発達に課題を抱えているのか、あるいは長く患っている統合失調症による脳の機能低下なのか分らない。彼の幼少期を知る人がいないからだ。この親戚も、初夏に獲れすぎた野菜を送ってくれるだけの関係だった。


「何か作ろうと思ったんだけど、今年はいつも食べない野菜だったから」

 もういいやってなっちゃって、と彼は言った。言葉尻を丸まらせる彼は、多少放置していた自覚はあるらしい。

「確かに、去年みたいにきゅうりとなすだったらまだ身近でしたね」

 後ろめたいのか、赤城さんは一向に目を合わせない。野菜と赤城さんを往復しているわたしの目と同一線上で繋がることはなかった。

「でも去年と一緒です。また簡単なお料理を一緒に作ってみましょう!」

 そう言って伊倉さんは立ち上がり、ズッキーニを何個か流しへ持っていった。赤城さんはそれを見て、同じように両手で掴めるだけのズッキーニを持って立ちあがる。

「流しお借りしますね」

「いいよ」

 赤城さんの声を聴くや否や、伊倉さんは野菜をじゃばじゃばと洗っていく。きゅうりのような立ち居振る舞いのズッキーニは、一回りか二回りほど大きい。赤城さんに内科疾患はないので、一般的な量であれば油も砂糖も気にしなくていい。醤油も自由に使える。

「洋二さん、まだ残っているお野菜はありますか」

 伊倉さんが野菜を洗っている光景を、彼はただ眺めているだけだった。


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