私服に着替え、お店のエプロンを付ける。アンも、いつものバーに馴染むカラーの服に着替えていた。
「あれ、あんまりウケてないですね」
壁際に置かれたコルクボードを見ると、色紙はふたつから変わっていなかった。写真も、篠田さんと翔子さん、二日酔いの香月さんのスリーショットが1枚飾られているだ。
「もともとの人の出入りが多くないですから」
アンは手を洗い、業務用の大きな冷蔵庫を開けて中身を確認し始めた。賞味期限が近そうなものから取り出し、台の上に並べる。メニューはおおかた決まっていた。このバーのお通しは、意外と家庭的な小鉢が多い。しかし先日篠田さんがお土産に持ってきた、金糸瓜という黄色い中玉のかぼちゃが丸ごと残っていたのだ。段ボールに入ったそれは、ぱっと5つは見える。
「これどうやって食うんですか……この前、聞きそびれた。香月さんも二日酔いで使い物にならなかったし」
アンはいつものメンバーが入る保存容器とひとつ取り出した大きな金糸瓜を前に考え込んでいた。
「アン、こっち向いて」
わたしの声に、アンは顔を上げる。――パシャリ。
「ちょっと」
「大丈夫、大丈夫」
わたしはインスタントカメラのシャッターを押す。キッチンで料理をする自然体のアンを切り取った。
「やっぱり写真映り良い」
アンは身長も高いからか、ふとした瞬間でも様になった。
「ボードが味気ないから、隅にスタッフ紹介のコーナーでも作っておこうかと思って」
そう言って、わたしは色紙とカラーペンを探した。この前使った残りを見つけ、色味を吟味する。暗いバータイムでもはっきり見えるように白色や黄色の紙を探す。
「じゃあ瀬野さんも撮ってあげますよ」
アンはわたしからひょいとカメラを奪うと、カウンターの脇に置いていた花瓶の横に立つよう指示した。泣く泣く花瓶の横に立ち、ぎこちない笑顔を向ける。
「すごい引きで撮って。写真映り悪いから。もう見えないくらいに引きで」
「なに言ってんですか。さあ、撮りますよ」
挙動がおかしいわたしに、アンはけらけらと笑ってシャッターを押した。
出てきた写真を2枚、コルクボードに貼り付ける。雲のかたちに縁を切った大きめの白い紙に、太目の文字で「スタッフ紹介」と書いて添えた。
「香月さんと芦谷さんにもお願いしなきゃなぁ」
一区切りついたボードを眺めながらつぶやくわたしを見て、彼は表情を曇らせた。
「香月さんはいつでも撮れますけど……あの人はNGですよ。いつだったかも、『写真は嫌いよ』とか言って」
まったく協調性がないんだ、と言ってアンは手の平を見せる。
「そういえば先日、芦谷さんと和解したよ」
テーブルやカウンターの拭き掃除をしながら、わたしは雑談がてらこの前の話をした。ボードや写真の企画については了承を得たこと、芦谷さんのスキルをアピールポイントとして前面に出していくべく、昼の時間帯でSNSに短い動画を1本アップロードしたことを伝える。
「え、あのおばさんが? すごいっすね……瀬野さん」
アンは驚いて作業に戻ったばかりの手を止めた。
「俺、本当にそりが合わなくて。去年も昼にヘルプで入ったとき、SNSの運用で一回揉めてるんですよ。あのおばさん、二言目には『できない』『やれない』って」
容易に想像はできた。苦笑するわたしに、アンは聞いた。
「やっぱり精神を操る魔法でもあるんですか」
アンは右手の人差し指を出しておどけて見せる。
「ないない! 香月さんも似たようなこと言ってたなぁ。精神科だからって、気持ちを操れるわけじゃないよ。全然!」
「本当に? だって、初日からバチバチやってたって香月さんから聞きましたよ。それなのにわりとすぐ収まっちゃうなんて、にわかには信じがたいですけどね」
彼の言う通りだった。初めてカフェタイム出勤で、香月さんが止めに入るほどだった。
「なんか、こう……互いに準備は必要だなって思ったの。訪問に出てね」
あのころは、自分も少し不安定だった。救急で長くやってきたプライドと、基礎中の基礎である針が扱えなくなった戸惑いで、バランスを取れなくなっていた。気の強さだけが前に出て、ただやれることを探して懸命に動いていたが、周囲から見れば感じのいいものではなかったかもしれない。
「どんな人が瀬野さんの患者なんですか。やっぱ危ないやつらばっかり?」
「いやいや、妊婦さんの代替要員だから、落ち着いてる人を振ってもらってるの」
わたしはぼんやりとだけ、赤城さんと笹野さんのことを頭に浮かべた。
「精神科で働いてみて、『受け入れてもらうのって当たり前じゃなかったな』と思い出したの」
「まあ、多少は」
あまりしっくり来ていない彼に、わたしは話を続ける。
「初めから拒否されることってほぼないよね、この年になると。でも実際、相手にはすごい圧力がかかってるんだよね。精神科の人たちは元になる病気や障がいがあって人間不信だったり、常に疑心暗鬼だったりすることが多いから、はじめましてのころは露骨に拒否されて。でもそれが分かりやすかったんだよね、わたしには」
腑に落ちた、という言葉が正しい。
「だから、今は『あなたに害を与える人間ではないですよ』って顔をして働いてる」
「なにそれ」
面白がるアンに笑顔を返し、自分もふざけたふりをしてみた。
「相手に自分を知ってもらわないと始まらないからね。それに、速度も大事だなって反省したの」
「速度?」
「うん。歩幅を合わせる努力をしてなかった」
赤城さんが作業所に行けた日を大袈裟に褒める伊倉さんを見て、斜に構えていた自分に気づいた。1日数時間の週3回の通所でも、赤城さんはやっとの思いで通っている。いい歳のおじさんが、週何日か外に出ることができて偉いだなんて、言われている方も、言っている方も馬鹿らしいとすら思ってしまった。何度か訪問し赤城さんを知っていく中でまったく思わなくなったが、一瞬でも白けてみていたあのときの自分を見なかったことにはしたくない。
「芦谷さん、もともと電子機器とかSNSとか縁遠そうじゃない? それをもっと考えるべきだったなって」
ふふ、と微笑むと、今度はアンがバツの悪い顔をした。
キッチンに出たまんまの大きなかぼちゃが、こちらを見ていた。話の風向きを変えようと、わたしはかぼちゃに近寄った。触ってみると、やや硬い。この辺りの食べ物ではないようだった。篠田さんは南の方の出身だったので、おそらく温かい地域の野菜だろう。
わたしは押し慣れない「金糸瓜」と言う文字をスマホに打ち込んだ。
「ねえ、これすごいよ。見て見て!」
わたしはすぐにアンを呼んだ。隣に寄って立ったアンに、わたしは自分のスマホの画面を向けた。