「優しいねえ、アンは」
「自己愛が強いだけです」
アンを無性に可愛がりたくなった。親子の関係は、一言で片づけられない。
「わたしなんて成人してから実家帰った回数、きっと片手で数えられるよ。確かにそんな自分をちょっと嫌な人間だなと思う日もあるけど、もう囚われたくない気持ちが強くて。そもそも不仲の親の面倒なんて、死んでもごめんだね」
わたしの両親は、子どもに無関心の父親と、それとは対照的に育児に完璧主義な母親だ。父は仕事に熱心だったが家庭を顧みない人だったので、その歪みが母を通して子どもに来ていた。だがその母との関係も、わたしが看護師になることを決めたときに壊れた。母は、「自分から望んでやるような仕事じゃない」と騒ぎ立てたのだ。当時のヒステリックに騒ぐ母の表情は、今も脳裏に焼き付いている。わたしはあのとき、話し合うことを諦めた。
「世話は好きでしょ」
「まさか!」
おちゃらけるアンにぴしゃりと言い放つ。そうだ、看護師だと、この先何かとあてにされる未来が容易に想像できる。どんどん歳を取っていく親に、情けをかけることは簡単だ。これまでをチャラにしてやってもいいと、いとも簡単に思ってしまう。
そんなのフェアじゃない。彼らの良いように利用されるのはまっぴらごめんだ。
これは、ある種の我慢比べのようなものだった。
「アンも無理なくね。別に親だからって、子どもがすべての責任を負う必要はないよ。今は医療だって福祉だってサービスが充実しているんだから」
一丁前にその業界で勤めている風を吹かせてみる。
病院にいたころはさほど考えもしなかったが、現在務める精神科訪問看護は医療と福祉のちょうど間に位置している。医療・福祉サービスとの連携にとどまらず、入っていないサービスの代理や繋ぎも多い。医療保険の利用では、介護保険におけるケアマネのような役割を果たす人が存在しない。誰かがやらなければならないとき、本人やそのご家族に実行能力がないとき、真っ先に駆り出されるのは相談員か訪問看護師だった。
院内で
「ああ、そういうのも意味なくて。なんせ、診断降りてないんです。病院嫌いなんですよ、昔から」
アンはどこかおかしいと思いながらも、長年お母さんを医師に診せることができないでいた。お母さんは買い物などで外に出ることもあるが、多くの時間をあのアパートで過ごしていた。
「お母さんってどんな……」
そう言いかけたとき、根掘り葉掘り聞かない方がいい話だと思いなおし、言い留まる。もちろん単純な興味で聞いたわけではない。何か些細なことでも手助けになればと思ってのことだ。
アンはわたしが言いかけたことを察していた。
「かまってちゃんですよ、息子の俺から見ても。俺が来るって分かっててあれこれ問題起こすんです。男もいないとだめってタイプだったし。昔はですけど」
その話を聞いて思い当たる疾患はあったものの、わたしは口に出すことはしなかった。他の疾患との鑑別もあるし、何より診断は医師の領分だ。精神科疾患はそれぞれの症状が似通っていたり、いくつも病気を併発していたりする場合も少なくない。慎重に、頭をフル回転させて言葉を選ぼうとした、そのときだった。
「ふら~っと出て行って、どこかで死んでくれないかなって思ってるんですけど」
アンは、日照りのいい初夏の空気に紛れ込ませるようにつぶやいた。どこかの家の敷地から、無花果の甘い香りが届く。質量を感じてしまうほど、それは鼻に残った。
「あれ、何も言わないんですか」
「何を言うのよ」
彼が休める時間を作るべきだと理解していても、今の自分の立場でなにができるのか。バーまであと少しというところ、わたしは同僚の苦しみに思い悩む。しかし当の本人は、こんな大きな爆弾を抱えながらいつも涼しい顔をして、今でさえ素知らぬ顔をして歩道を歩いている。
「分かった。わたしが行く」
「どこに?」
「アンのお母さんのところ」
驚いたアンは、「プライベートな時間まで看護師しなくていいですよ」とわたしを制止する。
「アンの友人として行くの。気にしないで! 最後に訪問するお宅とバーの間にあるから、何のタイムロスにもならないし」
アンは眉をくいっと上げ、珍しく困った表情をした。
「変な身内がいるのを同僚に知られたくないっすね、あんまり」
はっとするわたしを見て、アンは「さすがの瀬野さんも引くぐらいのヤバ女なんで。本当にやめた方がいいっす」と冷ややかに笑う。
「ごめん、ごめん。そりゃアンの立場もあるよね。今の話はナシ!」
踏み込みすぎないように気を付けていたのに、すぐに頭の外へ行ってしまう。わたしは慌てて両手をあげて、観念した。
バーの入口の立て看板が出迎える。半地下の店舗へ下る階段が追って顔を出す。
「でも、いつでも相談して。わたしじゃただの話し相手にしかならないだろうけど、クリニックの先輩は精神科での勤務歴が長いの。それとなく聞いてくるからさ」
虚を突かれたような顔をしたアンを歩道に置き去りにしたまま、わたしは一足先に「Toute La Journée」へ続く螺旋階段を勢いよく下りた。