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第22話:アンの出自

「本当に看護師やってたんですね」

 そう言った彼は、見返すようにわたしの頭から爪の先までをまじまじ眺めた。

 医療処置をする機会はないものの、訪問時はスクラブを着る決まりになっていた。白いスクラブにグレーのストレッチパンツは支給された仕事着で、わたしはその上に日よけの薄い上着を羽織り、訪問バッグを肩にかけて訪問している。

「失礼な。ちゃんとやってるよ」

 わたしはわざと胸ポケットにぶら下がっていた大き目の名札を彼の前にちらつかせた。“看護師 瀬野夏希”と書かれたそれは、印刷が真新しい。インクの擦れはない。


 自然とふたりが向かう道が重なる。アンも駅の方向を目指しているようだった。

「今日、このまま店行きますか」

「わたし着替えないといけないから、一度クリニックに行くの」

 そう言うと、アンは不思議そうな顔をしてこちらを見た。

「店で着替えくらいできますよ。オープンまで人の出入りないし」

 確かにカウンターの奥の部屋は普段誰もいない。広くはないが、ひとり着替える分には十分なスペースだ。大きい訪問バッグには、私服の着替えも入っている。わたしは彼の言葉に甘えて、そのまま一緒にお店へ向かうことにした。


「アンの家は駅からちょっと遠いのね」

 彼と道を歩くのは新鮮だ。薄暗いバーの決まりきったスペースを行き来するだけの関係だったので、際限なく広がる外を行くのは気が億劫になる。わたしは何かを話さないと、と思い、取り留めのない話を振る。

「あそこは母の家です。俺はバーの近くに部屋を借りてて」

 アンの私服は、シンプルだった。白い半そでを黒のパンツに軽くインする。オーバーサイズの服なのに、だらしなさはなかった。175㎝ほどはありそうな背丈は、155㎝ほどしかないわたしが見上げるには少々首が痛い。

「アンはお母さん似なの? それともお父さん?」

 たまたま出てきたというワードに便乗する。正直、この聞き方がベストなのかは分からない。出自は触れていいものか判断が難しい。しかし彼の横顔を初めてみたとき、異国情緒溢れる輪郭に目を奪われた。彼のルーツに興味を持っていたが、いつか聞いてみたいと思いながらも、なかなかタイミングを見出せずにいた。

「父親らしいですけど」

 わたしが「らしい?」と聞き返すと、彼は歩く速度を緩めることなく話を続けた。初夏の風が肩をかすめる。道路脇に生える草木

「母は日本人です。似たのは肌の色くらい。あとは、ベトナム人の父譲り、らしいです。俺は覚えてないのでなんとも」

「ベトナムかぁ。分かんなかったな」

 空に語り掛けるように呟く。ベトナムと言われて思いつくのは、すらりとしたシルクのアオザイを来た黒髪の美女だ。いつぞやテレビでベトナムを特集していたことを思い出す。確かにあの女性も輪郭はまっすぐなひとつの線になっており、エキゾチックな目元が印象的だった。円錐形の笠の名前は知らない。

「俺も同じです。何も分からない。父親とはとっくに縁が切れてるし、ベトナムにも行ったことがないし」

「行ったことないの?」

「母は日本で出産したので。当時父は日本に住んでいたみたいですけど、早々に国に帰ったみたいです」

 アンは幼いときに両親が離婚し、高校卒業までずっとお母さんと二人暮らしをしてきた。

「だから、俺は日本しか知らないです。ベトナムの言葉もしゃべれないのにこんなだと、色々面倒なだけで」

 アンは節ばった手を前に出し、まじまじと眺める。かざした手を見つめる瞳は儚く、どこか遠い先を思っているように見えた。

「……なんかさ、輪郭がいいよ! しゅっとしててさ。丸顔のわたしからすると」

 見た目のことを口にするのは、少し考えてしまう。

「もっと何かないんですか? ファッションとか。気を使ってるところを褒めてもらった方がうれしいです」

 終始和やかに話は進む。謙遜しないところに、言われ慣れている雰囲気が漂っていた。


「アンはお母さんと仲が良いんだね。羨ましい」

「良くも悪くもないですよ」

 住宅地をやっと抜け、お店がある通りまでたどり着いた。人通りが若干増える。

「わたしは親が苦手だったから、寮がある看護学校を選んだの。卒業しても数年に一度しか帰っていない」

 アンだけに身の上話をさせるわけにもいかないと思いつつも、いい話がなかった。笑ってごまかそうとするわたしに、アンも釣られて口角をあげる。

「俺もきっと、そんな感じになってたと思います」

 含みのある言い回しが引っ掛かり、思わず彼に視線を向ける。

「母は、ちょっと精神的に脆いんです。愛情深いベトナム人が逃げ出すくらいの女ですから」

 ふふ、と漏れた軽い笑いに、一抹の嘲笑が混ざる。ベトナム人が一体どんなお国柄のキャラクターを持つのかは知らなかったが、何かに依存しないと生きていけない女性のイメージは比較的容易につく。

「……それでも嫌なんですよ。“シングルマザーで育ててくれた母親を捨てる自分が”になることが。ただ薄情者になりたくないだけです」

 そう言って、彼は天に乾いた笑いを浮かべた。


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