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第21話:危うい世界

 笹野さんの家を後にし、本日最後の訪問先へ足先を向ける。

「伊倉さん、お腹は大丈夫ですか」

 マンションの敷地を出たころから、伊倉さんは仕切りにお腹をさするようになっていた。

「最近結構張るんだよね。もう妊娠も後半だから、ある程度は仕方ないみたい」

 そう言って、またせり出たお腹をさする。

「訪問中は座ってますけど、移動は大変じゃないですか。それにさっきみたいに興奮した利用者さんがいたら何があるか分からないし……」

 笹野さんは自らに刃物を向ける人だ。病気とは言え、そうなのだ。その事実があるにも関わらず、妊婦ひとりで訪問に行かせるのはあまりに危機管理がなっていない。家は閉鎖空間だ。鍵を閉められたらおしまいではないのか。

「そうね。でも妊娠が分かってから、ある程度、訪問スケジュールを固定にしてもらったの。今の利用者さんたちは家がみんな近くて助かるのよね。それに比較的落ち着いてるから、まあ……大丈夫かなって」

 えへへ、と苦い微笑を浮かべる伊倉さんに、わたしは納得いかない表情をして、静かに抵抗した。

 とはいえ、彼女の話も理解できた。常勤の人たちはみな車移動だ。それに比べると、確かに伊倉さんが回るエリアは半径が小さい。徒歩か公共交通機関で事足りる。

 おそらく他の訪問看護ステーションでは難しい対応だろう。利用者はその時々で変わる。それに、訪問範囲はまなべ精神科クリニックの半径5㎞だ。車も自転車も乗れなくなった妊婦が訪問看護師として働き続けるのははやり困難が付きまとう。その分、本人も何かと動きづらいのかもしれない。


「笹野さんは結構波あるなと思いました。今日の序盤なんか怖かったですもん」

 今思い出しても構えてしまう。好戦的に言い返してはいけないが、相手の思いのままになっていてもいけない。精神科は一際そういう側面がある。応戦すれば相手をさらに興奮させてしまうし、止めなければ止めないで、妄想などを抱えている人だった場合はますますの世界にのめり込んでしまうからだ。

「今受け持ってる6人の中だと、確かに一番不安定だね。やっぱり先生に複数名つけてもらおうかなぁ」

 伊倉さんは腕を組んで、天を仰ぎながら大きなため息をついた。

 現在行っている研修のための同行訪問は、保険請求するときの看護師カウントは1名になっている。こちらの都合で看護師を2名に増やしているに過ぎないからだ。

 病状により2名での訪問が認められる場合があるが、それは主治医が指示した場合に限られる。笹野さんの主治医は眞鍋院長だった。現状を報告しておけば、そのうち指示書を更新してくれるはずだ。

「付けてもらいましょう。何かあってからでは遅いですよ」

 わたしは少々強引に、笹野さんの複数名訪問の指示をもらうように提案した。しかし伊倉さんはひどく渋っていた。まだ何かを悩んでいる様子だった。

「……実は、もう少し様子を見たくて」

 わたしが不服な顔をして歩いていると、彼女はゆっくりと口を開いた。

「前もね、一時的にだけど、複数名指示が何度か付いていたことがあるの」

 驚いた。最近のカルテを見たときは、すべて看護師1名体制だった。かなり前だと推測しながら、わたしは伊倉さんの話に耳を傾ける。

「でも笹野さんは経過が長いから、指示書に複数名が付くと『マークされてる』と思っちゃって……だめなんだよね。さらに疑心暗鬼になってしまって……」

 伊倉さんは顎を触りながら、困った顔をして眉間にしわを寄せる。それを聞き、わたしの眉も次第にいびつになる。看護師の安全確保は第一優先だが、彼女の言い分も分からないわけではなかった。笹野さんが疑心暗鬼になり始めると、また手を付けられない。


「でもまあ、今は瀬野さんもいるしね!」

 すかさず、わたしは釘を刺す。

「必死に盾にはなりますけど、武道の経験はないですからね!」

 うふふ、と能天気な笑い声が辺りに響く。伊倉さんはふたつ年上の可愛らしいお姉さんだが、たまにこちらが不安になるほどノンキだった。



 最後の利用者さんの家を出て、伊倉さんとは道の途中で別れた。直行直帰の仕事はありがたい。記録は支給されたタブレットからできるため、クリニックへ戻る必要がなかった。

 しかしわたしに限っては、このあとのバーのアルバイトへ向かうため、一度クリニックへ寄って私服に着替えなければならない。

 クリニックに向かうルートを調べ直す。利用者さんたちの中で、このお宅だけ少し辺鄙なところに自宅があった。駅からは歩いて行けるが、小道が入り組んでいてわかりづらい。彼の家へ伺うのはもう2度目だったが、一向に覚えられないでいた。

 地図アプリに導かれるように、右へ曲がる。駅周辺とはことなり、ここは古い街並みがあった。道は舗装されているのにでこぼことして歪んでいる。雑草の力は強い。アスファルトをものともせず根を張っている。道端に咲いていた名前も知らない青い小花に目を取られていると、見覚えのある男性がとあるアパートの敷地から出てきた。


「……アン?」


 わたしの声に驚いて止まったのは、紛れもなく彼だった。

 エキゾチックな顔立ちは、昼間の太陽に照らされると、驚くほど海外の血を思わせる。敷地内の砂利が彼の足音を大きくした。


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