「そうなんですね」
伊倉さんは誰が見ても心をこの場に置いていることは理解できる眼差しで、うん、うん、と首を動かし頷くものの、これまでと大して変わらぬ言葉たちを繰り返した。
「何か言わないんですか」
笹野さんの声に力が入る。返事に手ごたえを感じなかったのか、彼女は伊倉さんへ猜疑心をぶつけるように聞き返した。愛犬の一周忌を前に、笹野さんは立ち上がる決意をした。それは彼女にとって一大決心だったに違いない。
「わたしは、笹野さんがチョコちゃんとの思い出を大事にしながら穏やかに過ごせたらいいなぁと思っています」
伊倉さんは土俵に上がってこなかった。笹野さんは要領を得ない顔をして、彼女を睨む。あまりの空気の悪さに、わたしも何か言った方がいいのかと迷い始めた。
研修中は、基本的に記録係として訪問に入っている。時折利用者と話すこともあるが、それは茶々を入れる程度に過ぎない。あるいはバイタルサインの測定を任されたときなどに限られている。
わたしは、この話がどこに着地するのか不安で不安で仕方がなかった。笹野さんは感情的になりやすい節があると申し送りで共有があったばかりだ。普段は物静かだが、ヒステリーを起こすと落ち着くまで時間を要し、何かに絶望すると自身の身体を衝動的に傷つけてしまう。それで今まで何度も彼女は精神科病棟に入院してきた。
自分の立ち回り方に困り果て、こっそり目だけを動かし伊倉さんを見ると、彼女はまったく柔和な表情を崩さなかった。それはまさしく鉄壁だ。わたしのように迷う素振りは一切なく、強固な意思が見て取れる。物柔らかでい続けることは、強くあるからこそと知る。
「その決断はいつごろされたのですか」
「一昨日です」
静かだった部屋は見る影もない。肌がピリピリするような緊張感が漂う。
一昨日とは随分急に決断したものだ。確か先週来たときは、この部屋は汚いとは言わないまでも、テーブルの上に書類が無造作に積み重ねられていたり、ソファに洗濯物が置かれたままだったりしていた。そしてソファの横に置かれた小さなごみ箱脇には、添えられるようなかたちでペットボトルが数本並んでいた。
「そうですよね。先週は仰ってなかったので、最近お決めになったのかなと思いました。少し急に決断すると、体調にご無理が出ることもありますから……」
内服薬の効能が顕著に出ているとき、気持ちが上向きになったタイミングでは、急に活動的になることが往々にしてある。無理が祟るとまた体調が沈みがちになったり、あるいは危険行動にまで発展したりする。伊倉さんもそれらの点を心配していた。
「別に無理してません!」
伊倉さんの言葉を遮り、笹野さんは声を荒げた。刺激とは無縁の落ち着いた声色ですら、今の笹野さんの前では針同然だった。笹野さんは、伊倉さんに「無理だからやめろ」と言われたように捉え癇癪を起す。この易刺激性が、彼女の病状を伝えていた。
「確かにお誕生日や命日は、ひとつの区切りにはなると思います」
「じゃあ何も問題ないじゃないですか」
笹野さんはとげとげしい言い方で語気を強める。表情は硬い。玄関でわたしたちを迎え入れた女性とは目つきまでもが違う。まるで別人だ。
「お疲れは出てないですか。一昨日からとのことですから、こまめに掃除をして、数日間この部屋を保っていたんですよね」
思わぬ労いに、笹野さんは少々分が悪くなったような顔をした。
「この半年間で考えても、一番綺麗です」
「ああ、はい。……多分。そうかもしれないです」
「確実にそうですよ。すごいです! 調子が優れないときは、床やテーブルに物を置いたままになっていたのに」
彼女は、「……恥ずかしい」と言って、出過ぎた身体を引っ込める。火はどんどんは小さく、そして弱くなっていった。
「ううん、みんなそうです。床が全部見えなくなっちゃう人もたくさんいるんですから!」
伊倉さんは「嘘じゃないですよ」と念押しして穏やかに笑う。彼女だけは入室時から一切顔色を変えず、平時と同様に話を聴き、行動を称えた。
「掃除をしたあとは、どんな感覚になりました? 一息ついた後の感想でもいいのですが」
笹野さんが落ち着いて話ができるようになったころ、伊倉さんはアクションの振り返りを始めた。
精神科訪問看護では、これがメインと言っていいほどに重要な過程だ。過大に、あるいは過少に自己を評価していると、たいてい物事は上手く回らない。そして人間には多かれ少なかれ
「掃除は疲れます。軽作業なのに、体のだるさはやっぱりあります。でも少し爽快感というか、やってやったぞ、みたいな気持ちも……多少は」
伊倉さんはひとつひとつに丁寧に頷きながら話を聴く。笹野さんもそれを実感したのが、そのころにはもう苛立ちは消え、言葉使いも元の通りに戻ってきた。
「とってもいいですね! 去年、一昨年は起き上がることもつらかったですが、今はお部屋のお掃除も頑張ったらできる。笹野さんは着実に変わってきています」
「医師に話すほどのことは何もなかった」と言った笹野さんに、伊倉さんは温かな声をかける。毎日は、同じ日々の繰り返しではない。少しずつ、少しずつ、何かが入れ替わり、そして行動の変容を遂げる。
「ひょっとすると、そろそろお疲れが出るころかもしれないので、笹野さんのご体調に
そう言って、伊倉さんはにっこりと微笑む。笹野さんが秘めていた不安の一角が、ゆっくりと溶け出した。