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第19話:決まりごと

 見たことない芦谷さんの表情が気がかりのまま、翌日、わたしはクリニックへ出勤する通勤電車に乗っていた。

 こんなことをしている場合ではない。いつまで経っても残る彼女の顔をかき消し、わたしは無理やり今日訪問予定の3名の利用者さんを思い浮かべる。初回訪問は先週終わり、一通りは利用者と顔を合わせることができていた。

 伊倉さんと駅で合流し、1件目の訪問を終えると、わたしたちは間髪入れずに2件目のお宅へ移動する。初日のような緩やかさはない。一歩外に出てしまえば、ばたばたと移動ばかりだった。

「今日はどうだろうね、笹野さん」

「どうですかね。先週、結構落ちてましたし」

 2件目の訪問先は、笹野ささの莉子りこさんと言う30代後半の女性だった。うつ病を患い、もう15年ほどと経過が長い。調子が悪いときは手近な刃物やオーバードーズで自殺を図る。救急外来に運ばれることや、閉鎖病棟に入院することは珍しくない。前回は、6年前に実母を亡くし、数年不安定な時期を過ごした。ようやく持ち直したかと思われた去年、可愛がっていたペットが急死する。彼女は再び希死念慮の海に溺れていた。


 マンションの一室に、彼女は暮らしている。ひとりになった部屋で、誰の物音もしなくなった廊下を歩く。わたしたちは、インターホンを押して、近づいてくるひとつの足音を静かに待つ。彼女の家では、インターホンの前で名乗ることは許されない。

 訪問の仕方は、家ごとに異なっている。インターホンを押す家、押してはいけない家、そしてインターホンがない家。また、玄関から入る家ばかりでもない。鍵が開けっ放しになっている裏口を案内されたり、一階の居間に面したガラス戸をノックして開けてもらったり、訪問先によって多様だ。

 そして彼女のように、病院名、立場などを名乗ってはいけない家もある。彼女の場合、「精神科」「看護師」というワードをマンションの外で言うのはNGだった。ご近所の目はどこにあるか分からない。彼女は常に精神科の偏見や自身の病気を知られる不安を抱えていた。

「今日、チョコちゃんの月命日だね」

 それは去年の夏に亡くなったペットの名前だった。カルテにも赤の太文字で、「毎月13日は愛犬の命日! 状態に注意!」とリマインドがついている。カルテ上でびっくりマークを使うのは、きっと太田さんだろう。

「そうでしたね。もう少しで1年になりますけど、亡くなった当時と比較して状況はどうですか」

「そうだなぁ。前ほどではないけど、やっぱりペットのことを思い出すと抜け出せないよね。ある程度のところで気持ちを上向きにしないと、次の月命日がすぐ来てしまう。そのあたりが要支援かな! あとは、リスカの痕を隠すから、話を聴きつつ身体観察はまだ注意!」

 そう言って、伊倉さんは自身の上着の袖を反対側の腕での何度か伸ばして見せた。


 マンションの部屋の前につくと、インターホンを1回だけ押して、わたしたちは静かにドアが開くのを待つ。キィーっと金属の擦れた音を聞き、目の前に立つ笹野さんを見つめる。生気のない青い顔は、いつもよりやつれていた。まだ玄関のドアが開いている。わたしたちは笹野さんに一礼してから室内に入り、ドアをゆっくり閉めた。

「こんにちは。今日は体調どうですか」

 伊倉さんが靴を脱ぐ前に彼女に穏やかに話しかける。

「まあまあです。上がってください」

 彼女の声を聞いてから、わたしたちは靴を脱ぐ。まっすぐに続く短い廊下を超えると、リビングに出る。余計な物は少ない。薄型のテレビは壁掛けで、リビングにあるのはテーブルとソファ、そして中くらいの背丈の棚がふたつ隣り合って置かれているだけだった。

 伊倉さんはテーブルのいつもの位置に座った。笹野さんの斜め前だ。テーブルの上も綺麗に片付いていて、お薬手帳と大きなサイズの薬袋が透けるビニール袋が口を縛って置かれているだけだった。

「今朝は食べられました?」

「そうですね、はい」

「薬は」

「飲めてます。でもやっぱり、あんまり効いてないです。頓服薬を追加で飲んでも寝れないですし」

「気持ちの方はどうですか」

「あんまり……。副作用だけ出るなら、飲みたくないなって。今、またそんなときです」

「そうなんですね。教えてくださってありがとうございます」

 そんなふたりの会話にそっと入り込み、わたしは副作用の症状を確認する。「現状の副作用はどういったものがありますか」と聞くと、彼女は「いつも通りです」とだけ返した。わたしはタブレットでカルテを開き、「疲労感と嘔気」と記入する。彼女はこの2症状が四六時中生じており、働くことができないでいた。

 変わるように伊倉さんが先日の受診時の話を振る。

「先生とは少し話せました?」

 伊倉さんは、彼女に声をかけてからそのビニール袋を開けた。お薬手帳を開き、受診情況や薬の内容に変化がないかを確認する。カルテではまなべ精神科クリニックの受診状況しか分からないため、他院の様子はお薬手帳を契機に確認している。以前のように、急にかかったであろう救急外来や外科の記録はなかった。

「ちょっとだけ。でもわたしも何かあったわけでもないので」

 昨日今日の苦痛があるのではなかった。もう何年もいろんな苦しみを溜めて、彼女は今ここで効きの悪い内服薬を決まった時間に飲む。

 なんと息のしづらい日常だろう。彼女がきちんと薬を飲み続けていることに、わたしはいたく感激した。自分だったら、副作用ばかりで効果を感じられないものを内服し続けることはできるだろうか。わたしは自然と、彼女が悲しみを手放せない理由を思った。

「もう大丈夫です。実は一昨日、生きていたらチョコの15歳の誕生日だったんです。いつまでも落ち込んでいてはいけないから」

 部屋がいつもより片付いていたのは、彼女の決意だった。


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