コルクボードを設置した後、もうひとつ大きな仕事があった。それはカフェタイムに働く芦谷さんへの説明と企画への理解を得ることだ。すぐさまやってきたカフェタイムで、わたしは意を決して彼女に話しかけた。
「芦谷さん」
「はい」
わたしたちは相変わらずぎくしゃくしていた。ふたりだけのカフェタイム勤務はもう何度かこなしたが、赤城さんの家に行って以降は初めてだった。今日は芦谷さんと話をするつもりできた。しかし喧嘩っ早いふたりが、香月さんもおらず落ち着いて話せるのかは疑問が残る。
わたしはまず先日のバータイムで仮運用をスタートさせた写真と壁に立てかけたコルクボードの件を、芦谷さんに共有することにした。写真はまだ飾られていない。飾る場所を決めかねていたので、ボックスに入れられているだけだった。そしてコルクボードの方には、2枚の色紙が画鋲で留められている。統一感のないメッセ―ジに、芦谷さんは首を傾げた。
共有事項を伝え終えると、芦谷さんは「わかりました」とだけ言って、簡単に終わった。賛成も反対も言わない。お客さんが自分で好きに残していく。そのため、スタッフ側の負担はさほどない。せいぜい物品の補充や破損しないように見守るくらいだ。
「芦谷さんはどんなお店にしたいですか」
急に投げかけられた質問に、片づけをしていた芦谷さんの手が止まる。
「別に。パートでどうもこうもないわよ」
彼女は冷めた口調で切り捨てた。一度止まった手は再び何もなかったかのように動き始める。乾いたお皿を棚に戻していく。
「ここの仕事がなくなったら困りませんか」
わたしは、彼女のことを知ることから始めようとした。
どうして初めて会った日にしなかったのだろう。これまでの仕事だってそうだったはずだ。カルテを見ずには患者の前に立つことは許されない。
「夫の遺族年金もあるし別に生活には困らないけど……まあ、あった方がいいわね。早くぼけたら困るもの」
芦谷さんはぶっきらぼうではあったが、気に入らない人間を無視するような幼稚さはなかった。
「……その威勢があれば、簡単にはぼけない気がしますけどね」
わたしは窓の外、遠くを見ながら笑った。すぐに「なに?」と凄まれる。わたしはすかさず「いいえ、何でも」と答え、人知れず頬を緩ませる。
彼女に興味がなかった。それはきっと伝わっていただろう。自分を蔑ろにされたと感じたかもしれない。名前を間違われ続けた赤城さんのように。
「わたしは、このお店がなくならないようにしたいと思っています」
まずは、自分が何者なのかを相手に伝えるべきだった。無用に構えられたり、話の流れが蛇行したりすることを避けられたはずだ。
「SNSはやはり新規客の集客に必要なので、今は夜だけになっていますが昼の時間帯も更新したいです」
「あなたがするんでしょ? ならいいわ。わたしはそういうの触れないから」
「ええ。そのあたりは任せてもらって大丈夫です。芦谷さんにお願いしたいことは……」
「写真なんて撮れないわよ」
矢継ぎ早に投げ込まれる主張に怯む。
「分かっています。芦谷さんにお願いしたいのは、料理のこだわりポイントを教えてほしいんです」
わたしは言われたように作ることができるだけで、特に料理にこだわりがあるわけではなかった。だから芦谷さんの知識をこのお店の宣伝に活用したい。
「まずですが、やはりパンケーキ。あの焼きムラのない綺麗さからアピールしていきたいですね」
わたしは芦谷さんにパンケーキを作るようお願いした。怪訝そうな顔をしながらも、彼女はいつも通り美しい黄金色のパンケーキを焼いた。少し生地の熱が落ち着いたところで、生クリームといちごソースをトッピングする。
「どうしてこんなところまで撮るのよ」
芦谷さんはプレートの盛り付けが終わったところで、わたしに声をかけた。無理もない。わたしは、芦谷さんが生地を混ぜたり、その生地を高いところから落として焼いたりしている動画をスマホで撮影していたのだ。すぐにその素材同士を加工アプリで切り貼りし、フリー素材のポップな音楽をバッグに設定する。ほどなくしてできあがった短い動画を、わたしは芦谷さんの目の前に差し出した。
軽快なバッググラウンドミュージックが再び流れ始める。数十秒の動画に、芦谷さんは食い入るように見ていた。
「こんな感じで、芦谷さんの焼くパンケーキをもっと知ってもらえたらなって」
彼女の焼き目に加工はいらない。垂らしたソースも、あえて高いところからではなく、さっと回すようにかけるところが自然体でいい。匂いだけはどうしようもないことだけが悔しかった。
「あなた器用ねえ」
SNSに動画を投稿している横で、芦谷さんは珍しくわたしは褒めた。
「これくらいは、全然。お互いのできることは生かしていった方が賢いなって思ったんです。わたしもこのお店つぶれたら困るので」
「看護師さんがどうして食い
彼女の問いは最もだった。あー、えっと……、と言葉に詰まる。
「大事な技術ができなくなってしまったんです。精神的な問題で……多分」
こんな言い方では何にも伝わらない。彼女はやっと近寄れた距離を、ぐいっと押し返してしまうだろう。先取りするように頭にズキンと痛みが走った気がした。それが気のせいかどうかも判断がつかないでいると、彼女が口を開いた。
「じゃあ、つぶすわけにはいかないわね」
彼女はそれっきり、何も言わなかった。生活がかかっていることを不憫に思ったのかもしれない。
拍子抜けしたわたしは、彼女の顔をじろじろと見る。それでも彼女は静かだった。