「ユウちゃんは撮らないの?」
翔子さんは、茶髪の青年に声をかける。誘いから逃げるように、彼はジンジャエールが入ったグラスを手に取った。
「写真苦手なので」
「なあんだ、じゃあそこに何か書いていきなよ。一番目になってあげて」
長い髪にくっきりとしたウェーブがかかっている。彼女は、ことあるごとに彼に声をかけていた。
「結構ですから……」
張りのない声は、バーで流してるBGMにも負けそうだ。
「紙はボードのところから取ってくださいね」
わたしは聞こえなかったふりをして、そのまま話を進めた。
急に握らされたペンに驚きながら、彼は渋々席を立つ。「僕はいいですよ」という声は、やはり誰の耳にも届かない。諦めた彼は、壁に寄りかかるコルクボードの元から一番上になっていた水色と橙色の色紙を取ってくる。そして何も言わず、橙色の色紙をわたしに手渡した。
「ありがとうございます」
「別に。道連れです」
そう言って、こちらに目もくれず、ペンを握って色紙に視線を落とす。素っ気ない男だった。飲み屋のネーチャンにくれてやる愛想はないらしい。
それを見ていた翔子さんが、わたしに話しかけてきた。
「瀬野ちゃんはアンより上なの?」
「はい、1個だけ」
「じゃあユウちゃんが一番下ね」
そう言う翔子さんに、彼は面白くない顔をした。まるで思春期の男子だ。篠田さんは香月さんと昨日の飲み屋での話の
翔子さんは篠田さんが経営する建設会社の経理兼副社長だった。「ユウちゃん」と呼ばれる彼は、高校卒業後からずっと篠田さんの会社で働いているらしい。田舎から出てきたのはちょうど5年前、18歳のときだ。篠田さんと翔子さんの間に子どもはいない。親元を離れて働く彼を実の息子のように可愛がっていた。
初対面のわたしに向かって、「よろしくね」と言う。その姿は、まるで母親のようだった。わたしは微笑ましく思いながら隣り合うように座る彼らを見ていたが、アンはカウンターから愛想笑いを浮かべていた。わたしはアンの瞳の奥に吹く木枯らしに違和感を覚えた。
カウンターの奥から物音がして振り向くと、香月さんが起き出してきた。周囲より一際重力を受けているかのように、半歩ほど足の出が遅い。
「来てると思った」
香月さんは篠田さんを見つけると、カウンターを挟んで篠田さんの前に立った。アンは何も言わずに、慣れた手つきで香月さん用のお酒を作り始める。
「何か一緒に食べます?」
「あー、どうしようかな」
アンは香月さんに飲み物を差し出した。ライムがグラスの縁に刺さる。篠田さんが頼んだものと同じだった。
「アン! 俺、ウインナーとポテトの盛り合わせひとつ」
悩む香月さんの背中を押すように、篠田さんがフードを頼んだ。
「じゃあそれみんなで食べよ」
「汚ねえ、オーナーだな」
ふたりは気の置けない仲のようだった。香月さんは、篠田さんと同じお酒を嗜みながら、眉を下げる。
アンはわたしにソーセージの場所を教えてから、フライパンで焼き始めた。ポテトはレンチンひとつでできあがる。わたしはお皿を出し、マスタードとケチャップを待機させた。その間、わたしは冷蔵庫に入った小さい容器を覗く。先ほど出たライムの残数をちらりと確認した。まだ切らなくてもよさそうだった。
先にできあがったのはアンの方だ。用意しておいたお皿にソーセージを雑多に乗せる。後からポテトを同じお皿の残り半分に盛り付け、そばにマスタードとケチャップを垂らす。
「お待たせいたしました」
アンがふたりの前にお皿を差し出した。カトラリーケースにはフォークが4本入っている。わあ、と喜んでみせる翔子さんとは対照的に、ペンを握った手はまだ青い色紙と睨めっこしていた。
「気軽に書いてもらって大丈夫ですよ。名前も別に書かなくていいですし」
見かねたわたしは、取り皿を配りながら彼に声をかけた。
「あなたは何を書いたんですか」
余程煮詰まっていたのか、彼はわたしへ興味を示した。わたしは台の上に置きっぱなしにしていた橙色の色紙を見せる。「いろんな人に来てもらえますように」と走り書きされた紙を見て、彼は「短冊?」と呟いて笑った。
「違いますよ! でも、何か願い事を残していただいでもいいですよ。叶う保証はないですけど」
わたしはカウンターを出て、一番にコルクボードへ画鋲を刺す。彼は少し考え込んだ後、「じゃあ」と言ってペンを動かした。
――木漏れ日と猫のしっぽ。
名前は書かれていない。日付のみ、右下に添えられている。首を傾げるわたしを尻目に、彼はコルクボードの元へ行く。画鋲で留められた青い色紙は誰を見ているのだろう。