SNSを閉じたアンは、興味津々と言った様子でわたしの近くまで寄ってきた。
「ここの壁って、使ってもいいかな」
わたしはお店の突き当りにある壁を指さした。
店内は思いのほかシンプルだった。青みがかったグレーの壁には、ポスターも貼られていなければ、絵が飾られていることもなかった。メニューはカウンターとテーブルにそっと置かれているだけだ。
すると、奥の部屋でうなだれたままの香月さんに向かってアンは声を張り上げた。
「香月さーん! 壁って、好きにしていいですかー?」
弧を描くように飛んでいく声。少しのタイムロスのあと、か細い香月さんの声が返ってきた。
「……どんな感じー?」
「分かんない。これから決めるー!」
「……うん、いいよー」
それっきり、また香月さんの声は聞こえなくなった。本当にいいのか疑問を感じていると、「それで」とアンはわたしを催促する。わたしは押されるように、口を開いた。
「まず、目指すところは、集客と定着。そのために写真作戦と寄せ書き作戦を決行します!」
わたしは指を目の前に2本突き立て、ふたつの案を示す。
「ひとつめは写真作戦。利用したお客さんがすでにいることを伝え、このお店に入っても問題ないことをアピールする。今は口コミが何よりの宣伝だし、それに店内が見えにくいからこそ、それをすることで入店の心理的負担を減らせると思うの」
SNSと並行して、フレンドリーさを出していきたい。
わたしは自分のバッグから持参したインスタントカメラを取り出した。白く丸みのある見た目は、どこか懐かしさを覚える。
「今流行りの“エモい”を狙います」
そう言い残し、わたしはそうっと香月さんが寝ている奥の部屋の入口まで行く。――パシャリ。香月さんは微動だにしなかった。小走りでアンの前まで戻ると、その間にインスタントカメラは1枚の写真を吐き出していた。
「うわ、今日本当にだめかも」
徐々に浮かび上がったそれには、机にうつ伏せの状態で山になっている香月さんが映っていた。写真を覗き込むアンの声が辺りに響く。
「ちょっと画質悪い?」
「それがいいの」
調べてみると、今は持ち運べる小型のコピー機も出ていたが、こういうのは解像度が高すぎない方がいい。記憶を入り込ませる余地がなくなってしまう。
「写真は、店の一角と外の看板辺りにどうかな」
「悪くないと思います」
これ見よがしに、バーカウンターの内側に先ほどの写真をテープで貼り付ける。お客さんからは見えない位置だ。カウンターの中で、ふたりの口元が緩んだ。
「そしてもうひとつは……」
わたしは持参した大きいトートバッグの中から、B2の折りたたみコルクボードを取り出した。トンとカウンターに置かれたボードは軽くて薄い。ひっかけるところがないんだよな、とぼやきながら壁の隅を探した。
「それは何に使うんですか」
首をかしげる彼を横目に、わたしは丸イスを持ってきた。壁に掛けることは諦めて、その丸イスの上に大きなボードを立てかけた。
「この場に思い出を残させる。何か残していけば、ふとしたときにこのお店も思い出してもらえるから」
丸イスの座面に、正方形の色紙と画鋲が入った箱を置いた。
「なんだか心理戦ですね」
「そう。こっちは必死なの」
これがわたしの役目だ。問題はあれど、好条件で雇ってもらっている。わたしはこのお店の現状を変える使命に駆られていた。しかし、「でもちょっとやり口が古くないですか」とアンから控えめなクレームが入る。
「昔、ドラマで見たの。時代は回るから、そろそろこの辺りに帰結するはず。だって、なんでもかんでもエモいなんだよ? きっともうすぐだね」
わたしは、えへん、と高を括る。アンは「どうでしょうね」と呆れ顔だ。わたしは彼をあえて視界に入れないようにしながら、ポップを作り始めた。
――好きなことを書いてね! 今日の思い出、お店へのメッセージ、どなたかへの伝言……なんでもOK!
そんなことを書いて、ボードの端に飾っておく。言葉は何でもよかった。ペンを取るのは酔った勢いかもしれない。明日には覚えていないかもしれない。それでもいい。ここがどんな場所なのか、わたしも知ることができる。
お店の開店時間を過ぎ、少し経った頃、1組目のお客さんが来た。40代ほどの男女と若い男性の3人組だった。
「今日は雅也いないの?」
「いますけど、ちょっと裏でダウンしてて」
40代ほどの男性がアンに話しかける。「飲みすぎ?」と聞く声に、お通しを人数分準備しながらアンは大きく頷いた。
「どこで飲んでたのかしら。会わなかったね」
女性がカウンターに頬杖をつきながら口を開く。話を聞くと、この40代ほどの男女は夫婦で、昨日も別の店で飲んでいたらしい。
わたしはアンに言われて、3人の目の前に順々にお通しを差し出す。
「バイト?」
「はい。最近入りました。瀬野と申します」
アンとの会話から察するに、この人たちは常連のようだった。わたしは改まってあいさつをする。
「下の名前は?」
「夏希です」
「じゃあ夏希ちゃん、俺はジントニック。ライムで」
「かしこまりました」
少し距離の近いこの男性は、「篠田」と名乗った。カウンターの向こう側に目配せをすると、アンはすでに作り始めている。
「お連れさまはいかがしますか」
「わたしはジンジャエール」
「僕も同じもので」
わたしは注文伝票に「ジントニック(ライム)×1、ジンジャエール×2」と書いてから、カウンターの中に戻る。ジンジャエールは小瓶を開けて氷を入れたグラスに注ぐだけだった。教えてもらった場所から小瓶と栓抜きを持ってくる。栓抜きを扱うのは久しぶりだった。握る手に力が入る。蓋が落ちる軽い金属音とともにようやく開いた小瓶を傾け、準備していたグラスに注ぐ。ジンジャエールはシュワシュワと氷の上で音を立てた。
女性は「翔子さん」、若い男性は「ユウちゃん」と呼ばれていた。
翔子さんはすぐにお店の変化に気づいた。企画趣旨を簡単に説明するアンに、「えーこのカメラ懐かしー!」と一番に食いつく。そこに肩を寄せるように近づいたのは、篠田さんだった。
いつしかインスタント写真を自分で撮り始めたふたりは、あとから入店してきた別のお客さんたちまでも巻き込んで、フロアで楽しく過ごす様子を写真に収める。いい感じに酔いが回ってきた篠田さんに、翔子さんは「取り直しはきかないんだからね」「これフィルムも高いんだから。無駄に撮っちゃだめよ!」などと言っていさめる。
その間、青年だけは何も貼られていないコルクボードを見つめていた。