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第15話:初めてのバータイム

 クリニックで着替えを済ませると、わたしは「Toute La Journée」への道を急いだ。今夜はバータイムの初出勤だ。訪問看護とは違う緊張が走る。しかしどこか弛緩する自分がいた。香月さんとアンのふたりの存在が大きい。

 わたしは店の前の螺旋階段を降り、金属の重たいドアを開けた。アンと会うのは面接の日以来だった。あいさつをしながら入ると、すでにアンはカウンターの中で仕込みをしている。

「お疲れさまです」

「今日からですね。よろしくお願いします。気楽にいきましょ」

 アンは基本的に敬語で話すが、時折フランクな口調になる。このちぐはぐなコミュニケーションは、思いのほか居心地がよかった。


「今日は別の仕事だったんですよね」

 疲れてないですか、と彼は言った。

「全然大丈夫! まだ見習いって感じだからそんなに業務も重くないの」

 むしろ体力的には軽すぎるくらいだなんて、とてもじゃないが言えない。

「じゃあ、昼はどうですか」

 彼は使った容器を洗いながら、わたしに話しかけてきた。

「いやー、なかなか苦戦中かな……」

 芦谷さんとはあれ以来、冷戦が続いている。

「あのおばさん、やりづらいでしょ」

「ええ、まあ」

「香月さん、お人よしなんですよ。あのおばさん、お世話になった人の奥さんらしくて」

 エキゾチックでくっきりとした輪郭を少しだけ天に向け、彼は首をひねる。

 「そうだったんだ」と相槌を打ちながらわたしはカウンターに入り、手持ちの荷物を所定の位置に置いた。カフェタイムにつけているエプロンを手に取ると、アンに「バーでエプロンって新鮮ですね」と笑われる。一度手放してみたが、着けないのも何だか居心地が悪くなり、結局エプロンの紐を後ろで結ぶ。

「何もしないんです、昔から。……できないというか。だからおばさんを雇うのは反対したんですけど」

 1回雇ったら簡単にはやめさせられないってのに、とアンは呆れた声で言う。


 初日にお店を盛り上げていく策を香月さんと話していたとき、芦谷さんは終始否定的だった。入店しづらいお店の佇まいも、継続して通ってくれる人が少ないことも、お店の立地が悪いため仕方がないと言い切った。SNSの更新すら難しい彼女だ。解決する算段がないだけかもしれない。

 明日のカフェタイムで少し話ができれば、また何か変わるだろうか。


「アン……は、いつからこの店に?」

 初めて会ったとき、彼はみんな自分のことを「アン」と呼んでいると教えてくれた。言い慣れない名前に、呼び捨てはさらにぎこちない。

20歳はたち超えたくらい、としておきます」

 間延びした声に疑わしさが引き立つ。おかしくなって、わたしは思わず息が漏れた。アンはすらりとして身長が高い。声も落ち着いている。どんな10代だったのだろうと邪推する。

 にやりとするわたしをよそに、アンは話を続けた。

「まあ、なので、結構長くなりました。バータイムは初めてだと思うので、何でも聞いてください」

 そう言うアンにわたしはひょこっと頭を下げる。彼はすでに葉もの野菜をシンクで洗い始めていた。お通し用の煮浸たしに使う野菜だった。わたしはそれとなく洗うのを変わる。

「一個下だったよね。じゃあ最低でも7年以上かぁ」

「最低でも、ってなんですか」

 ふふ、と笑い合っていると、ドアのバンブーチャイムが涼しい音を立てた。「お疲れ~」と言う声とともにフロアに入ってきたのは、香月さんだった。眠たそうに眼をこすっている。

「また昼過ぎまで飲んでたんですか」

 アンの小姑のような問いかけに、彼は、ああ、うん、とだけ言ってカウンターの奥の部屋へ行ってゆく。

「あんな感じのときは大体、使い物にならない。今夜は即戦力でお願いしますね」

 瀬野さん、と念押しする声は冷やかしにも似ていた。



 アンの言う通り、香月さんは開店の時間まで裏で机に突っ伏して寝ていた。わたしはアンから仕込みを一通り教わると、回転の時間をカウンター内で待つ。

「香月さんってお酒弱いの?」

「そうですね、それなのに飲むんです。控えめに言ってあほっすよ」


 アンはSNS用の飲み物を作ると言って、ロックグラスに角砂糖を落とした。大きな四角い氷を入れると、アンゴスチュラビターズを角砂糖に浸み込ませ、バーボンウイスキーをグラスに注いでいく。そしてグラスのそれぞれの面にオレンジピール、レモンピール、オレンジスライスを飾った。

「これはそれぞれの香りを楽しんでいただくためです。一面はあえて触らない。そのままの味わいを堪能してもらいます」

 アンは、できあがったお酒を以前同様にバーカウンターのインテリアランプのもとに置いた。透き通る黄金色のそれは、オールドファッションドというカクテルだった。

「角砂糖はそのままでいいの?」

「崩しながら飲むんです。好きな甘さで」

 なるほど、と言いながらわたしはエプロンのポケットからメモを取り出した。メモを取りながら仕事を覚える。看護学生のころを思い出した。

「そんなことメモしなくていいですよ」

「わたし、本当に知らないの。お酒のこと」

 カクテルを何か作る際、レシピ本にはリキュールやお酒などの配分が載っている。それを順番に適したグラスに注ぐ。あるいはジガーカップと呼ばれる計量カップのようなもので測り、ステンレスのシェイカーへ入れる。入ってしまえば、シェイク自体はアンがやってくれることになったので、わたしは補佐的に外回りを遂行することが求められていた。

 そうなれば、必然とお客さんと話す時間は多いだろう。飲み方の説明や雑学チックな小ネタは持っているに越したことはない。


 アンはランプのもとで何枚か写真を撮った。そのうちの1枚を明るさや範囲を調節し、SNSへ投稿する。

「SNSの効果はどう? やっぱり違うもの?」

 わたしは彼に手ごたえを聞いた。カフェタイムの集客の参考になると考えた。

「ある程度は感じますよ。この前も『これが飲みたい』と言ってSNSに投稿した写真を見せて注文してきた人がいましたし。新規さんにはいいですよ。母数が少ないですけどね。あと、常連さんは一切見てないかも。話にも上がらない」

 バーはカフェタイムと違って、もともと客入りにさほど問題はなかった。飲み屋街の一角にあることもあり、店内が見えづらくても大きな問題はない。昼の時間帯よりも固定客が付きやすく、新規開拓に躍起になる必要もそこまでなかった。


「……もう少し刺激がいる」

「刺激?」

「この店には流れがないんです。今の常連さんがゆっくりできるコンセプトもいいけど、常連も新規も両方の層がいないといつかだめになりそうな気がして」

 アンは若い層が定着しないことを危惧していた。だからこれまでもこまめにSNSを更新していたのだ。誰もやらないこの店で、アンはひとり戦っていた。


「じゃあ、わたしにいい案があるんだけど」

 スマホを握るアンがこちらを向く。わたしは考えていた策を、すでに人の出入りがあるバータイムで実験してみることにした。


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